97年の時点ではテクノクラートの側の分が悪かった。かなりナショナリスティックになって腐敗してきた。そういう経済政策を、この機会にテクノクラートの側にある程度すり寄せて、それで改革を実行しようと思っていた節があるように私は思います。
もう一つは、危機のさなかで自由主義的な経済政策に転換したことは間違いだったと思います。例えば、8月に為替レートをフロートしているのですけれども、あの時期にフロートするのは私は間違いだったと思います。たしか2,500ルピアぐらいだったものが、フロートした後に一気に3,000ぐらいまでいっている。私は8月にアメリカで国際会議をやっていて、インドネシアのエコノミストも一緒にいましたけれども、たしか8月16日か17日に、ついに3,000ルピア超えたよといって、そのころ、ええっ、というような感じでしたから、あの時点でどうしてフロートする必要があったのか。必ずしもアタックはなかったわけですね。強烈なアタックを為替市場で受けていたというのなら別ですけれども、必ずしもアタックはなかった。むしろイデオロギー的にフロートがいいのだという考え方が、どうもテクノクラートの側にあったのではないかなと思われるわけです。
それからもう一つ、インドネシアはあの時点、かなりの外貨準備を持っておりました。ですから、タイのように7月の初めには外貨準備が事実上ゼロになってしまったという状況とは違った。我々もインドネシアがIMFに行くには相当時間がかかるだろう、直ちに行くことはないだろうと思っていました。おそらく、これはテクノクラートがIMFを呼び込んだという側面があるのではないか。IMFとかなり相談をして、今後の経済政策をどうやっていったらいいのか、これは悪意があったわけではないです。非常にピュアに、インドネシアの経済政策の腐敗みたいなものに対する批判があって、それを直すためにどうしたらいいか、このためにはやはりIMF、アメリカの力を使って、ある程度時計の振り子を自由主義的な方に戻すべきだ、このように考えたのだろうと思います。
おそらく同じように考えていたのがマレーシアのアンワール、当時の副首相兼大蔵大臣だったわけです。あの当時、アンワール、マレーシアの大蔵大臣と、マリ・モハマッドという人がインドネシアの大蔵大臣でしたけれども、2人とも非常に仲がよかった。たしか、あれはイスラムの青年運動かなんかで一緒で、両方で相通じ合って、ある程度自由主義的な方向に経済政策を振ろう、インドネシアのクローニズム的な、マレーシアはそれほどそれがきつくなかったのですが、インドネシアは非常にきつかったので、それを何とか直そうというようなことでIMFを事前に呼んだ。アンワールさんも実はIMFと相談しながら、マレーシアの政策を進めていた節があります。