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ベートーヴェンはまさにこの時代の政治や軍事に関わる様々なことがらの織りなす現実の中を生き、その中で作曲活動を展開していたのであって、そういうことからするならば、そのような部分を不純であるとか非本質的であるとか言って切り捨てたところに現れてくる、「純粋な芸術作品」を書き続けた「まとも」な作曲家ベートーヴェンというイメージは相当歪んだ一面的なものであったと言えるのではないだろうか。

こうした問題は何も、作曲家像に関してのみ出てくるわけではない。もっと言うなら、音楽文化全体のあり方に関わる話なのである。「戦争」とか「国家」というようなテーマは、音楽史が語られる際にはつねに「日陰者」であった。というより、そんなものにまともにかかわるのはろくな音楽ではなく、むしろそういうものに惑わされずにそれ自体の美を追求するのが「まとも」な作曲家であり、「まとも」な作品であるという「イデオロギー」がわれわれを支配してきた。われわれが暗黙のうちに、『ウェリントンの勝利』や『エロイカ』をめぐるエピソードをベートーヴェンの音楽活動にとっては本質的でないものとみなして、周縁に追いやってしまおうとするのも、そういう「イデオロギー」にとらわれているからに他ならない。だが西洋音楽の歴史に目をやれば戦争に題材をとったり軍楽にヒントを得たような曲がいかにたくさんあることか。そしてまた、音楽文化の「現場」で行われる活動がどれほど周囲を取り巻く戦争状況や国家のありようと密接に結びついた形で展開されてきたことか。そういう要因を排除したところに「純粋な音楽史」が成立するなどという考え自体が、ある種の「イデオロギー」に基づいた虚構なのである。

そういえば昨年、『軍艦マーチのすべて』という非常に興味深いCDが発売された。瀬戸口藤吉の作になる例の有名な『軍艦マーチ』に関わる今世紀初頭以来の様々な歴史的録音が集められているのだが、そこには数多くの編曲バージョンが収められている。中には、尺八と箏のためのバージョンだとか、「ムーランルージュ」で演奏された軽音楽バージョンなどというのもあり、それぞれの時代に人々がこの曲とどのように親しくつき合ってきたかということをあらためて感じさせられる。今のわれわれはこういうものをつい、「戦争」と結びついた特殊な曲として受けとめてしまうのであるが、彼らにとってはおそらくそんな特殊なものではなかった。もっと軽やかで日常的な関わりがそこにはある。そういう意味では、逆の言い方をするなら、この時代の人々にとって、「戦争」は日常生活の一部であったとも言えるのである。戦争を肯定すべきだなどというのでは、もちろんない。だが、文化や歴史を考えようとするときに、その部分だけを墨塗り教科書さながらに消し去って、残った部分に「正しい」文化や歴史がうちたてられると考えてしまうとしたら、それはとんだ考え違いである。戦争と音楽との関わりを考えることは、そういう意味で、文化とは何かということを根本的に考えることでもある。この問題は、ベートーヴェンの思想とか日本の戦争責任といった個別的なことがらをはるかにこえた大きな問いをわれわれに投げかけているのである。

 

(わたなべひろし・音楽学)

 

 

 

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