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解剖学実習を終えて

匿名

四月八日、いよいよ解剖実習の始まりであった。数日来の期待と不安で顔が少し火照り、気持ちが多少高揚しているのが自分でも分かった。白衣を忙しなく着込んで、いざ実習室に乗り込んだ。フェノール臭の立ちこめる実習室内には、ビニールに包まれた三十体前後の御遺体が実習台の上に置かれ、ビニール越しにでも顔や足の方向など人体としての輪郭が、はっきりとみてとれた。厳粛な気持ちで席につき辺りを見回した。寡黙にただじっとビニールを通して献体を見つめる者や、いつもよりもやたらと口数の多い者、ひっそりと泣いている者もいた。みんなもやはり自分と同様に、複雑な気持ちでこの実習初日を迎えていることが自然と伝わってきた。「君達のおじいさん、おばあさんが、君達が立派な医者になるよう、自らの体を提供して……云々。」と先生の話があり、その時にふと祖母の顔を思い浮かべた。自分は、十代後半を受験に捧げた、医者になりたくて、三浪してまで医学部に来た。自ら選んだ道のはずなのに、その苦しみや寂しさに耐えられず、弱音を吐いて、家族に迷惑をかけたことを思い出した。実に情けない話である。それに比べ、祖母や祖父、そして目の前にいるこの人達は違う。

 

 

 

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