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人体解剖実習を終えて

松田 苑生

人は必ず、二つの事を経験する。一つは両親の愛の結晶として生まれる。もう一つはさまざまな経験を子孫に残して最期の時を迎えることだ。

六才の時、初めて「死」の存在を知った。なにげなく触れた祖父の手の、その異様なまでの冷たさに私は震えた。時計の秒針が、迫り来る死の足の音の様に聞こえ、しばらく眠れない日々が続いたことを覚えている。

あの日から十数年。医学部に進学した私は再び「死」と直面した。解剖学実習で出会った八十才の男性の御遺体は、忘れかけていたあの日の記憶を再び私に呼び起こした。恐怖心は確かにあった。しかしそれは実習を進めてゆくうちに次第に人体の神秘へと移り変わっていった。

人体はどうしてこれほど巧妙に造られているのか。実習の毎日が感動の連続だった。それと同時に人体というこの小宇宙は、人間の意志を遥かに越えたものの存在を私に大きく感じさせてくれた。人間は生きているのではなく、生かされているのだと。

六才のあの日、「死」の存在は真っ暗な闇の中に包まれていた。しかし今、私は「死」についてこう考えている。「死」をみつめることとは「生」をみつめることに等しく、そしてそれは限りある「生」を充実させることに他ならないのだと。

二ヶ月に及ぶ解剖学実習を終え、実に私は多くのことを御遺体から学ばせていただいた。それは単に医学知識だけにとどまらず、人体の神秘や、目を背け続けてきた「死」についても正面から向き合うことができた。ここで得た知識や経験は将来、医師としてばかりでなく、私の人生においても大きな支えになることは間違いないと感じている。

最後になりましたが、御遺体を快く御提供して下さった御遺族の方々にも感謝しつつ、ペンを置きます。

 

 

 

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