また、北部随一の景勝地であるハロン湾の環境管理計画に関して、現在開発調査を実施しているところである。
4. 我が国の経済協力の経緯という観点から
我が国の経済協力は戦後賠償から始まり、さらに昭和29年にはコロンボ・プランの正式加盟国として認められたことから援助供与国として技術協力に取り組むこととなり、そして昭和33年からは政府直接借款(円借款)を開始した。昭和40年代以降には、我が国の貿易収支が黒字となったことや、国際連合の場等において南北問題解消のための政府開発援助の拡大が強調されるようなことなどを背景に、経済協力は我が国の重要な政策の一つとして位置づけられるようになった。このような過程において、経済協力実施体制も強化が図られ、昭和36年に円借款の業務を担う海外経済協力基金、昭和49年には技術協力と無償資金協力を担う国際協力事業団が設立された。昭和50年以降になると、我が国の経済力に見合う国際貢献が必要との立場から、経済協力の量的な拡大を積極的に目指すこととなった。その後、2国間ベースの政府開発援助(ODA)供与実績は飛躍的に伸び続け、昭和60年代には仏を抜いて世界第2位のODA供与国となった。このような国際協力の拡大に伴い、我が国として国際協力の理念を明確に示すべきだとの意見が内外に高まってきたことから、平成4年に「政府開発援助大綱(ODA大網)」を策定し閣議決定した。しかしながら、平成6年度以降、財政状況の逼迫や我が国国内の経済の停滞などのために、ODA予算は抑制されることとなり、平成10年度予算からは当初予算において前年度よりも減額され、今後は、量的な拡大から質的な向上を目指すこととなっている。
以上のような経緯から、今後ODAの質の向上ということが益々重要になってくるものと思われる。そのような中で、ODAの質の向上とは何かが問われなければならないだろう。また、厳しい財政事情や国内経済事情、さらには、今後高齢化社会に入り労働可能人口が減少するという趨勢から考えて、ODA支出がそれなりに説得力を伴う必要もあろう。したがって、今後ODAが我が国の国益との連関がしっかりと把握されるべきと思われる。
著者は、ハノイに赴任する前にODAに関する図書をいくつか斜め読みしたが、今、3年間実際に現地での任務を通して振り返るとき、どうも、「ODAかくあるべし。」ということが絞られすぎているような気がする。現実に我が国を含めてODAを実施することのインセンティブにはいろいろな側面があり、そのバランスを取っていくことが重要ではないかと考えられる。例えば、水道や病院、初等教育のような市井の人々に裨益するようなODAも重要であるのは確かであるが、国が富むことができなければ、水道局や病院、小学校に勤める人の給料も払えなくなり、皆、副業に精を出してしまうことになる。したがって、国の富を増大させるような社会開発、即ちインフラ整備ということは不可欠であると思う。また、そのようなインフラ整備がうまく行くためには、それらの事業を運営する人、即ち政策形成や公共事業を執行する行政機関の人々への技術移転を着実に行う必要がある。また、我が国の国益との連関という点では、やはり「顔の見える