【小倉】具体的なご提言がありました。
ひとつは、自然とのつきあいを生活の中に取り戻す。これはなかなかしんどいことです。
もうひとつ重要なことは、社会的な仕組み―公的な支援をして、資源やエネルギーをうまく循環できる仕組み―をつくっていくことが大事なのではないかとのご提言ですが、この辺いかがでしょうか。
【柳沼】今のお話と基本的に同じなのですが、我々漁業者でいえば「産業として成り立たないといけない」という観点で世の中の仕組みが全部つくり上げられていて、今も続いているわけです。法律などがすべて縦割りでできているのも、それはそれなりに合理性をもっていたのですが、地球自体がぶっ壊れてしまうと身近なところでわかってきたから、これは大変だ、ということになったと思います。しかしながら、依然として「近代化していかないといけない」とか、「効率主義を追いかけていかなければ競争に負ける」とか、そういうものがあるわけです。これを基本的に我々の日常の生活の中で変えていくしかないのではないかという感じがします。
例えば、森を林業者がどのように捉えているかというと、「生産財」と基本的に捉えているわけです。これを「環境材」なんて言ったら「食っていけませんよ」と必ず言われます。どういうふうに日本全体の森を環境材とするか。森林法も、公益的機能があると保安林を持ち上げるだけで、法体系そのものは依然として生産財という森でしか見ていない。部分的に環境保護の森とか整備はしているけれど、生産者自体が生産の森と環境の森というものを並行して、その価値の中で食べていけるような仕組みはない。
酪農にしても田んぼにしてもそうです。
酪農は北海道では300頭とか500頭いないと採算が合わないといって、たれ流しのふん尿の問題は全く考えられていなかった。ところが、自分たちの飲み水さえもおかしい。牛自体が消耗品のように死んでいく。長生きさせるにはもっと太陽にあててやる。それにはもっと頭数を減らして、いい牛乳を飲んでくれる市民の理解を得ることしかない。そういう形でいろいろ変化が起こることもあるでしょう。
田んぼも400とか500haの田んぼを北海道では開発局がずいぶんつくっている。農民は効率的で、多収穫できると言っています。小倉先生のお話で、ドイツのヒューム管がありましたが、必ずあれを付けて、除草剤をまきます。今までは1/10くらいの田んぼだったので、多少除草剤をまいても大体あぜ道の横の水路で分解されていた。支流から本流、海に来るまでに除草剤は分解されると思っていましたが、広い田んぼからいきなりヒューム管で本流へ来るわけです。これでは海の生物全部除草されてしまう。沿岸域のまわりは全部なくなってしまうわけです。そういったことは農民自身も考えていかないといけない。それを推進するシステム、開発行政あるいは農地に対する行政を改めていかないといけない。
それともうひとつ、ケビンさんの言った、埋め立てその他で漁業権を持っている漁民がわりと簡単に漁業権放棄をするから、結果的に事業を促進する側面があるというご指摘はその通りだと思います。
漁民がなぜどんどん減っているか。一方では漁業権を放棄した漁民たちがいなくなる。それから、魚がとれないから、採算がとれない、産業として合わないからやめていかざるをえない。そういう側面があります。これはものすごい勢いで進んでいます。戦後50年のツケが全部川下の漁民その他に回っているのです。
この仕組みは漁業権そのものが悪いのではない。漁業権は漁業者が持っている畑ですから、これは持たせなければいけない。ところが金で買うようなシステムになっているわけです。これは息子も寄ってこないところで「わしはあと15年くらい生きればいいな」という漁師が、「どうですか、3千万で」「いやあ、これはよかった」と、みんな多数決で「はい、はい」と漁業権を放棄する仕組みになっている。
電源三法などもそうです。町村その他に火力発電所、原子力発電所をつくるとき、何億という金をやるわけです。漁民に一定の地域を放棄させる金、札束でほっぺたをたたくわけですから、私だってグラッとなります。法体系がそうなっているのです。
西洋その他のいろいろな仕組みを入れてくるということならば、自然に対する価値があるとすれば、それを漁民がどう評価して、どう補償するかということなのです。