うちは棚田で、田んぼを見回らないと危ないので、毎日夜に行きます。行きますと、もう薄暗くなっていますが、例えば月見草がワッとあぜに咲いている。それを見るとほっとします。その次にあぜ草を切るときには、月見草なんてそんなに伸びないし、あぜを歩いていてそんなに障害にならないので、そこだけ避けて切ります。
そういった世界は、きわめて個人的な世界です。人にことさら話す必要はない世界ですが、そういう実感によって支えられている、と今からは表現してもいいと思うのです。
アイガモの件でも、本来イリオモテヤマネコなどは全く手付かずの自然に生きているヤマネコではなくて、田んぼのネズミなどを結構食べていたのです。西表の百姓から聞いたことがあります。ですからアイガモを放せば食べるのが当たり前なのです。
きちんとバックアップをしていく仕組みがいまだにない。ただそれは行政も早晩バックアップするようになると思います。僕も県庁の役人ですけれど一生懸命手伝いをしているわけで、かといってそれでクビになるわけではありませんので、それくらい認知のされ方はしてきたのだろうと思います。
街の人間(消費者)が農業なり自然環境を支える一番の近道は、地元でとれたものを食べることだと思います。食べることによって、おいしいとか、安全だとか、栄養がある、そういうのはわりと実感できるのですが、これで自然環境とつながっているのだ、自然環境を守っていく一翼を自分も担っているのだという実感が消費者に伝わるかどうか。それを消費者も受け止めきるか、感じ取ることができるか。
そのためには新しい百姓の表現の仕方が必要です。実感というのは、自分のためにすればいいわけです。「百姓をしてよかったな」という実感は自分のためで閉じ込めていても何ら不都合はない。人のためにしようという気持ちがなければ表現なんて生まれるわけがないのです。自分が作った食べ物を届けていく、消費者のために食べ物の価値も含めて自然環境、農業、田舎の暮らしの豊さを表現しようと思ったときに、新しい、今までと違う農業の世界がうまく伝わっていくのではないかと思っています。
【小倉】小島さんもゴミ拾いという事例で、全国一斉に同じやり方で拾って調べて、実感するということにつながるのだと思うのです。実態や原因を明らかにして、最終的には発生源対策。どうすればよいのかを考えるきっかけとする、というお話は私たちが進めている水質一斉調査とも非常に共通するものがあります。その辺について、質問へのお答えと同時に、少し感想をお願いします。
【小島】私の説明不足、言葉足らずでこういうご指摘が来てしまったと思うのですが…
「クリーンアップということはよくわかるのだけれど、病気であれば治療より予防ということで、ゴミをなくすとか捨てないということの前に、ゴミを作らないことへの取り組みの方が重大ではないか」
これはその通りだと思っています。私どもも拾うとか、何が落ちていたとか、そういうことだけではなく、「捨てない、捨てさせない、あるいは、いらないものは買わない」。そういうことをまず実感して、それがあって、逆の方から「捨てないようにしましょう」ということです。「ものをやたらに買わない、消費しすぎないようにしましょう」と唱えるだけでは一人一人の実感に欠けるものがありますので、拾いながら数えたり調べることを通して、別の角度から実感していただくことをやっているわけなのです。言葉が足らずに失礼いたしました。
今、小倉先生がおっしゃったような水のことでも、それから他の先生方が発表されたことでも、皆さん共通しているのは、「つながりの中での実感」だと思いました。
ゴミになっている元のものがどこから来ているのか。例えば、空き缶を例をとると、アルミ鉱石は日本にはないわけです。外国で公害をまき散らしながら、お金で買ってきているという現実があります。
ゴミは景観を汚しているだけではなく、そこに含まれる様々な汚染は、食べ物の連鎖というものを通じてまた私たち人間にも戻ってくる。
そういういろいろな「つながり」に、ゴミを拾うという小さな行為ですが、これを通して気づくことが多々あります。
他の先生方の発表とは、散乱ゴミ問題というのは分野からするとちょっと別のように感じるむきもあるのですが、「つながり」というのがひとつのキーワードではないかな、と思いました。