我々が一生懸命作っている赤米です。赤い米です。かつて弥生時代は全部赤米だったのです。昔の田んぼはこのような風景だったわけです。黄金色の風景というのは江戸時代の半ば以降です。だから、日本人の原風景は今とは相当違うと思います。
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最後にもうひとつ、言っておかなければいけないことがあります。
我々は、害にもならない益にもならない虫を「ただの虫」と呼んでいます。これは今、学術用語にもなってしまって戸惑っています。私たちはただの虫を自然の代表と思って育ってきました。害にも益にもならないが、メダカが泳いでいない川よりはメダカが泳いでいる方がいいなと思います。このような感性・価値観をもっときちんと表現して、評価していこうではないかと思います。それに対して、きちんと百姓も頑張っていこうとしています。
ところが、これがうまくいかないのです。百姓はそのような助成はいらないというのです。「自然環境はタダでいいではないか。それを金にしようという発想がおかしい」と言うのです。僕は「待てよ」と言い、いつも激論になります。なぜなら、百姓にとって自然環境は「自分のために守っているのだ。人のために守っているのではない。家の前の水路にメダカが泳ぎ、ホタルが光る。これは、自分がいいなと思うのであって、人のためにいいなと思うなんていうのは関係ないことだ」と言うのです。そういう発想で、現代の農業政策に毒されてしまっています。
本来は百姓をして、田舎で暮らしていて「いいな」と思うことは、周りの人も「いいな」と思うことです。もっと言えば、下流の人も「いいな」と思うことです。それは決して自己満足ではなく、百姓だけの利益だけではありません。「みんなもいいなと思い、みんなの利益になるから、一銭にもならないが、自然環境をきちんと守ってください」という言葉が消費者からなければいけません。そうでないと百姓は依然として自分のために頑張るしかないのです。
「あなたたちの自然環境を守っている農業の営みは、私たちのため、国民のためにも役立っているのだ」という消費者側・町の人たち側からの応援がなければ、農業はつぶれていくと思います。ジリ貧になっていくと思います。今の国の政策のように、外国の農産物ばかり比較する財界の言い分、外国は安いとか日本の農産物は高いなど、単なる生産物として、金に換算できるものだけで見ていくならば、農業の自然をつくっていく能力や、百姓の気持ちがなかなか復活していかないだろうと思います。
だから今、百姓はボランティアで、自分のため、自分の地域のためだから頑張ろう、という心根だけで支えて頑張っています。これをこのまま放っておくことは国民として情けないのではないでしょうか。
ぜひ、よろしくお願いいたします。
事例3] 「わたしたちのゴミが海を汚す」
小島あずさ (クリーンアップ全国事務局 代表)
ケビンさんから宇根さん、柳沼さんのお話を大変興味深く客席から聞かせていただきました。
私どもがしているのは、いわゆる「ゴミ拾いボランティア」です。しかし、美化清掃活動を目的としてゴミを拾いたくて始めたことではありません。
様々な環境の問題が私たちを取り巻いていますが、誰でもどこでも気軽に参加できることを通じて、身近な自然、環境のことを考えて行動していこうと、9年前から事務局を作って活動してきました。
日本では昔から美化活動が非常に盛んで、町内清掃や5月30日の「ゴミ・ゼロ運動」などの大きな、きれいにしようという活動はたくさんあります。私たちのやり方は、そのような今までの清掃活動とは違う特徴を持っています。
そのひとつは、全国で一斉に、同じ時期に、同じやり方でやります。それから、拾ってそこでおしまいにしないで、拾いながらゴミのことを調べるというやり方をしています。