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北海道はまだ、開発されてたかだか100年ぐらいしか経っておりませんが、ニシンの歴史は500年ぐらいあります。そして、倭人が入って、道南で細々とやってきた歴史があります。いずれにしても、新しい地域でした。したがって、国は北海道開発庁を作り、北海道開発を進めました。遅れたがゆえに、猛烈な勢いで開発をしてきました。

今から22〜23年前に、200カイリ問題で、遠洋に出た漁業が全部外国から押し返された時期がありました。狭いところでひしめき合って漁業をしなければいけません。ふと、辺りを見回したら、開発が進んでいて、山も森も大変な状況になっている、ということに気がついたわけです。

そのようなことが背景にあり、40年前の昭和30年に、ニシンが全く消えてしまいました。北海道の漁業はニシンから始まってますが、明治30年、1897年の97万トンをピークにずっと下がって、洞爺丸台風が昭和29年に起きて大騒動があり、昭和30年を境にニシンが全くいなくなってしまったのです。

いろいろと原因の話が出ております。その中に森を切ったからだろう、という話もあります。漁師にも、ニシン釜でたくさんの肥料をつくるのに薪をずいぶん炊いた、という反省がありました。ニシンの夢を描いて、山に本を植えれば何とかなるのではないか、ということもありました。

北海道の主要な漁業は鮭・ホタテ・コンブですが、この御三家と言われる3品はいずれも森の産物です。ここで言うまでもなく、森がなければこれらはできません。森から川、そして海、このつながりの中でホタテは今40万トンとれます。植物プランクトンのおかげで、川のすぐそばに大量の漁場が形成されます。コンブは陸の栄養から光合成でつくられる植物です。鮭は川に上がって、森の栄養で森と共に育って、また北洋へ行って帰ってくる、森の産物です。

このような学習や経験則から「そうだ、やりましょう」ということになり、森づくり、山づくりが持続しているのです。これは北海道だからできるのではなくて、多かれ少なかれ本州の産物も実は森の産物です。

宮城県の畠山さんというカキ養殖業者の方は「森は海の恋人」という大変ユニークな詩の一節を運動のネーミングにされて有名になりました。私どももこの方と同じぐらいの時期に運動を始めました。このカキ、広島やどこでもあるカキはもまた、森の産物です。アコヤ貝、その他の真珠養殖にしても、そのような生態系の中で、森の産物である、ということを我々はこの運動の中でわかってきました。そうして、今では全国22道県で漁民の森づくりが大なり小なり行われています。

私どもの運動は、大きく2つにわけられます。

ひとつは、88年の開始からブラジル・サミットがあった92年の5年間を、我々は創世紀といいますか、よちよち歩きの時代に位置づけております。この時は身内の啓蒙をしました。身内で学習しながら、内々に励まし合う時代でした。

その当時、わずか10年前ですが、広葉樹の苗木は全然ありませんでした。我々は森林組合と88年のはじめに文書で約束しました。「これからずっと山に木を植えますから、森林組合さんは全道に150あるので、お手伝いしてください」と言いましたら、大変喜んで、それ以来パートナーとして、手を組んでおります。その当時の苗木の供給は、エゾマツとトドマツしか生産していませんでした。ドングリから育てるような、まだるっこしいやり方はあまり得意ではありませんから、とにかくあるのを何でもいいから植えよう、ということで、広葉樹、針葉樹などのとにかく強い、北海道に合った末だったら手当たり次第植えよう、という時期でした。

漁師がどうしてこのような思いをしているのか。200カイリ問題以後の厳しい漁業環境は今も続いていますが、それをわかってもらおうという意味合いも込め、宣伝に努めたこともあったからです。

6つの柱を目的として立てました。その中で、「漁業者自ら変わろう。変わらなければ我々の生活はよくならないし、今まで通りの昔通りのスタイルではだめだよという意味合いが第1項目にあります。それから、3番目あたりに「私たちも自然の接点にいて、一番わかるのだから、地球規模の環境問題に目を向けよう」ということも書いています。5番目には「森林組合をはじめ、協同組合間の提携をしよう」ということです。農・林・漁あるいは生協も含めて、協同組合は非常に弱ってきています。その人たちは手を結ばなければ生きていけません。とりわけ一次産業はひどく弱り、特に自然と共にあるこの産業がどうしてこんなに弱ってしまったのだろうか。

 

 

 

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