これは60年ぐらい前の海でしょうか。他にも書いていますが、本当にカレイなどを踏みつけたそうです。バケツいっぱいにそういう収穫物をとるまで子どもでも30分かからなかったと言います。エビが20種類もいたそうで、大変豊かな海であったわけです。
これは戦争中、海で弟が死んだと書かれていて、「誰ひとりいないたそがれの海に向かって、死んだ弟の名を思い切り大声で呼んで、思い切り泣いて、けろりとした顔で家へ帰ったものです」
戦争から帰ってきた兵士たちが日がな一日浜に座って海を見ていたとここに書かれています。人々の心に海がどんなに大事なものだったか書かれています。「その帰りには一升瓶に海水をくんで帰り、雑炊やおかゆの味付けにしたものです。戦争末期しょうゆが足りなくて、よく恩恵にあずかりました」
こういう海だったのです。
「海岸を歩けばキシャゴ、イイダコなどもたくさんとれ、鳥貝、ハマグリ、ホタテ貝なども時々たくさんついていて、海に潜ってとりました」
これは44歳の方ですから、今から40年ぐらい前のことでしょうか。
それから私が驚きましたのは、
「子どものころの防風、松露とり、潮干狩り、幻想的な灯ろう流し、泳いだあとは松の木に登り、皮をはいで夏休みの宿題の工作を作ったり、日の出の観察もしました。見渡すかぎりの砂浜に座って海を見ていると、島の後ろから大きな太陽が顔を出し、その瞬間波間がさーっと輝き出すと、知らず知らずのうちに祖母と手を合わせていました。大きなウミガメをリヤカーに乗せて帰り、お酒を飲ませて海に返したこともありました。あのときは本当に浦島太郎になったような気持ちでした」
今から40、50年前には織田が浜にウミガメがやってきていたのです。地元の人たちはウミガメを見つけたら、リヤカーを家から引いてきてわざわざうちに連れ帰ってお神酒を飲ませる風習がありました。
こういう海とのつきあいを私たちはいつから忘れてしまったのか。いつからできなくなったのか。これは何百年も前のことではないのです。私は49歳ですが、私の生きている時代に数千年、もしかしたら何万年も続いてきた海の幸をこういう形で私たちはなくしてしまったと思っています。私は瀬戸内法がどうして機能しなかったのだろう?そのことにいつもいつも返ってきました。昔大潮のときに1km先まで歩いていけた遠浅の砂浜がなぜこんなになったのだろう?埋め立て前もやはりやせていました。浜の先で海砂利が日の出から日の入りまで毎日とられていました。県条例の要項の中で量が決められていますが、今年になってすべての業者が海砂の違法採取をしていたということで書類送検されています。
環瀬戸内海会議でゴルフ場の問題が一区切りついたとき、私たちの合い言葉は「瀬戸内海を毒つぼにするな」でした。ゴルフ場の運動を始めたとき、瀬戸内周辺には500ヶ所のゴルフ場がもうすでにありました。瀬戸内法がらみでできるゴルフ場は200ヶ所もありました。この200ヶ所を絶対つくらせないぞ、という思いでできたのが私たちの会でした。バブルがはじけ、ゴルフ場の建設は下火になりました。まだ続いているところもありますし、立木トラストの運動をまだしているところもありますが、今、瀬戸内海で何が問題かといいますと廃棄物の問題です。
私たちの会では豊島の産業廃棄物を撤去したあとに森をつくろうと「豊島は未来の森トラスト」というのをしていまして、1日1500円で全国から木を植えてくださる方を募っています。ゴルフ場の立木トラスト運動では全国から1万5000人の方が参加してくれました。全国でこのように浄財を出してくださる方が一方にいる中で、瀬戸内海の埋め立ては止まらず、海砂の採取は広島県は今年になって禁止されましたが愛媛県はまだ続いています。香川県も岡山でもしています。海砂が何に使われるかというと埋め立てです。埋め立てはなぜしなければいけないかというと廃棄物です。私たちの出した廃棄物の持っていき場所を海に求めているのです。そのすべてを許しているのが瀬戸内法だと思っています。
瀬戸内法は、六法全書のたったの1枚です。この中にやはりすべての問題点があるのだと思います。裁判しても負けるような法律、織田が浜も守れなかったような法律を私は改正すべきだと考えています。
環瀬戸内海会議では岩国の藻場の埋め立てに反対して、藻場の写真をハガキにして環境庁長官や防衛施設庁に埋め立てをやめてくださいと送る作戦を展関しています。まだまだ続く埋め立てを何とか阻止したい。埋め立てに使う海砂の採取をやめさせたい。それとセットになった廃棄物を何とかしたい。