そういう運動をしてきて、そこで生きている住民が声を挙げていくことの大切さを学んできたと思います。1990年、ゴルフ場の反対運動のため瀬戸内地方の65の団体が集まって、今も活動しているわけです。その運動に入る前、1987年、織田が浜に運輸大臣の埋め立て許可が下りました。このときから私も織田が浜の運動に関わりました。もう許可が下りてしまう時期から関わったものですから、大変はがゆい思いをしました。1987年から10年これを見てきて織田が浜がそのあとどうなったのか、織田が浜の埋め立ての意味は何だったのか、ということをまずご報告をさせていただきたいと思います。
なぜ織田が浜か。私は織田が浜の運動をして何に無力感を感じたかというと、瀬戸内法という法律、1973年に成立した「瀬戸内海環境保全特別措置法」という法律です。1970年代のおばけハゼが釣れる、あちこちで赤潮被害が出る、そういう状況の中で瀬戸内海を守っていこう、とできた法律です。特定地域の海の環境の法律は、全国でこの瀬戸内法ひとつしかないと聞いています。それほど我が国にとっても環境法としても大変大事な法律、瀬戸内法というのができたわけです。それほど1970年当時の瀬戸内海は悲惨な状況といいますか、もう二度と再生できないのではないかという状況でした。
瀬戸内法の中に「瀬戸内海の埋め立ては厳に抑制する」という一文があるにも関わらず(法文とは別に基本計画の中にある)、埋め立てられたわけです。1973年から今までの間、埋め立ては続いています。織田が浜もそういう中で埋め立てられたのです。織田が浜訴訟は1984年に提訴し、1995年に最高裁で棄却されました。この裁判は、瀬戸内法を争いました。織田が浜の埋め立ては、これを厳しく規制するはずであった瀬戸内法に違反しているではないか?この法律に違反するような公金(私たちが納めた税金)支出の差し止めの裁判でした。
私たちはかたずをのんで見守っていたわけですが、結局住民が敗訴となりました。その理由は、埋め立ては厳に抑制するけれども、次の場合はそれだけではないということが基本計画の中に出ているわけです。全体の地域の環境保全に資する埋め立て、例えば下水道処分場の埋め立てです。これが大変問題だと思いますが、廃棄物処分場のための埋め立ても内陸部の環境に資する埋め立てであるということで許されてきました。織田が浜は、周辺の環境に影響が軽微である埋め立てはよろしい、ということで埋め立てが許可されてしまいました。つまり、瀬戸内法に違反していない埋め立てである、と高松の高等裁判所、最高裁でも認められてしまったわけです。
瀬戸内法という大変貴重な日本海域で唯一の法律がなぜ機能しないのだろう? よく知っている織田が浜の美しい浜が埋め立てられるような法律は何の役にも立たないではないかと思いました。それが私が今日瀬戸内海に関わる原点です。
織田が浜がどんな浜だったか写真でお見せします。
まさに白砂青松、港湾を埋め立てる前は2km以上の非常に深い幅の浜でした。会場に孫を連れてきている私の娘が3歳のとき、織田が浜に泳ぎにいくと、車から降りたところから水際まで、熱い砂の上を走っても走っても海に行かないのです。もうそれは50mくらい、波打ち際まで遠かったです。今は浜に行きましたら、埋め立ての横に少し残っているのですが、すぐそこがもう海です。こういう無残な状況にしてしまった私たちの運動も弱かったわけですが、瀬戸内法という法律は一体何だろう?ということが私が今日していることの出発点だと思います。
その写真を見ていただきながら、織田が浜がどんな浜だったか『海と人間』(織田が浜の埋め立て問題で今治が揺れているとき、100人ぐらいの人が書いた織田が浜の思い出)を読んでみます。
「春、秋の大潮には、子どもでも1kmも沖まで遠浅の海を歩いていって大きなツボ貝や巻き貝を拾い、時にはカブトガニすら踏みつけていた」