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パネルディスカッション 「きれいな瀬戸内海をとり戻すために」

【コーディネーター】 大谷伸二(愛媛新聞論説委員)

【パネラー】

阿部悦子 (環瀬戸内海会議 代表)

葭川敏明 (広島地区漁業青年協議会 会長)

柳 哲雄 (九州大学 応用力学研究所 教授)

山城 滋 (中国新聞 報道部記者)

 

【大谷】それでは、後半の2時間ほどコーディネーターをさせていただきます。

私自身、松山市西部の海まで歩いて10分余りのところに住んで半世紀余りになります。終戦直後の記憶では松林があって砂浜がある透き通った海という、瀬戸内海のモデルのようなところだったのです。その後工場が進出して、廃校による汚染がありました。それから埋め立ても始まりました。当時はまだ臨海工場の埋め立てが許された時代です。現在その埋め立て地が何も利用されずに、そのままになっている矛盾も見ているわけです。あの美しい海で遊べた追憶、私の子どもはもう高校生ですが、現在は子どもたちにはかわいそうな環境だと思います。海の近くに住みながらほとんど何もできなかったという無力感のようなものにもとらわれています。年を経るに従って「このままではいけないのではないか」という気持ちも強くなっています。少し長くなりましたが、今日は私も一緒に勉強したいと思います。

それでは最初に、住民の立場から活動されて15年ぐらい、振り返りつつ話していただきたいと思います。阿部さん、よろしくお願いします。

 

【阿部】今治からまいりました阿部悦子と申します。「環瀬戸内海会議」という瀬戸内地方65団体から成る自然保護団体で活動、その代表をしています。

1990年に愛媛県が瀬戸内リゾートの重点地域の指定を受け、この時期に愛媛県は全県上の0.5%以内にゴルフ場面積をとどめる規制を撤回しました。枠を外して、当時十数ヶ所のゴルフ場計画をしました。そのときに私の住んでいます今治の上流、玉川にもゴルフ場ができるということでした。

私は有機農業を支える運動や、学校給食で安全な食べ物をという運動をしていましたので、上流の水が汚れてしまうと大変だ、ということでゴルフ場の反対運動に立ち上がりました。1990年当時はリゾート法という法律が大変活発に動いていた時期で、その重点地域にかかったゴルフ場が開発されてしまうと、なんと日本の国土の1%がゴルフ場になろうかという勢いでした。その時期に瀬戸内周辺の人たちが「あなたのところの町も、その島もこの島も」という形でゴルフ場の開発計画があるということで、集まって作ったのが環瀬戸内海会議です。

私たちはどこからも補助金を受けないで、自分たちでお金(会費)を出してしているものですから、どんな手段もとるわけにはいきません。このときに「立木トラスト運動」として、ゴルフ場の予定地になる山の木を1本1500円でたくさんの人に買ってもらって、その木に所有権を持たせました。例えば、私が1500円で木を買ったら、ゴルフ場開発業者は「この木を切ってもいいですか?」と所有者にお願いにこなければならないわけです。この所有権を盾にゴルフ場の反対運動をいたしました。

瀬戸内の各地方で26ヶ所のゴルフ場の計画地に立木トラストをかけました。20ヶ所で今までゴルフ場計画をストップさせています。当時はゴルフ場も立派な自然だということで、ずいぶん反対運動も叩かれました。今ではあるゴルフ場を計画したあるメーカーの社長さんが、「あのとき止めておいてくれてありがとう。もしあのまましたら200億、300億と損失が出て、うちも倒産だった。反対運動があったおかげで助かりました」と、ある人を通じておっしゃいました。「ぜひ私たちの運動にカンパしてください、とお伝えください」と言っておいたのですが、それはありませんでした。

 

 

 

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