最も難しいのは環境倫理だと思います。いくら自然が大事だ、海が大事だ、魚が大事だといっても、やはり人間は自分が一番大事だという言い方になってしまいがちです。工業とか技術は進歩したけれども、人間の心は進歩していないという言い方があります。しかしよく考えるとそんなことはないのです。『環境倫理学』という本によると、我々の倫理、あることをしていいのか悪いのかという価値判断の対象は、昔は自己だけだった。自分にとっていいか、悪いかということだけが倫理の基準になっていた。それが家族を持ったら、家族にとっていいか悪いか、自分を含めてですが、そういうものが倫理の基準になった。さらに歴史を経て、部族、宗教、国家、人種が倫理の基準になって、現在世界の平均的な倫理基準は民族に置かれていると思います。
考えたら、ギリシャ時代のポリスや、ローマ時代は奴隷を平気で使っていたのです。ポリスの人たちはそのことを全く悪いと思っていなかった。南北戦争が終わるまでのアメリカは、黒人の奴隷を使っていて、まちがっているとも思わなかったし、良心のかしゃくも感じなかったわけです。今や、公には奴隷は世界中でなくなった。明らかに人間の倫理が変わってきたことを示しています。
そのようなことを考えれば、今後人間が自然に価値の基準を置く倫理観に到達出来る可能性はある。日本の場合は少し特殊な問題があります。世界全体を見た場合、日本人ほど世界全体を考えていない民族はないのではないかと、国際会議に行く度に思うのです。国家、人種を越えて世界の人間がどうやって一緒に住んでいくかが、非常に大事です。それを考えると、人間の生活を支えている動物や植物も大事です。
環境倫理学者は宇宙そのものに倫理の基礎を置く時代が来ると言っています。そこまでいくかどうかはわかりませんが、少なくともある種の人たち、例えばグリーンピースの人たちは、人間よりも鯨とかイルカとか、貴重な動植物の生存を守ることがより大事だと言っています。我々日本人は倫理観は余り変わらないと思っている。自然を愛するとか、瀬戸内海に対して最もふさわしいつきあい方を確立することは難しいと思っているのですが、時間がたてば我々の倫理の対象が、人間を越えて自然に向き、社会全体の仕組み、あるいは価値観が変わるような世の中に移っていって、瀬戸内海に対して埋め立てなどしなくてすむような時代が来ると、私は信じています。
■瀬戸内海の“里海”化
逆にそのようにならないと、トリレンマの状態を克服できるわけがないのです。それを私は瀬戸内海で、世界で最初にやってみたいと思っています。私はほぼ毎月いろいろな国際会議にひっぱりだされて、瀬戸内海のことを宣伝したり、東シナ海とか沿岸の海が世界全体の気候変動に関連した海の研究をどう進めていくかということを話しているのですが、瀬戸内海はある意味では今のところ世界の成功例のひとつなのです。特に東南アジアから見れば、瀬戸内海はひどい汚染状態をよく克服できたと評価されているのです。
欧米人には自然はそのまま残しておけばよく、君らの研究は漁師の下請けだという人が居て、猛げんかをするのです。私は、そんなことはない、自然、特に沿岸海域の場合は漁師が漁師として生活できないような自然は意味がないという話をしています。このような学問のあり方は残念ながら、世界では少数派です。
しかし、私は瀬戸内海を、言葉で表せば「里海」だと思うのですが、里海としての瀬戸内海のあり方をうまく機能させることができるようになったら、それは世界中の海が瀬戸内海をまねして、そういうやり方を探るようになる。そのような海とのつきあいが、陸にも影響して、持続可能な世界は実現できるとど思う。そのようなシステムを管理するためには流域全体を管理する必要がある。森から川、川から海の、自然と人間のかかわりをすべてやらなければいけませんが、そのようなことをやって、この瀬戸内海を世界のモデル海域にしたいというのが私の夢です。