本来の干潟はシルトという細かい泥が積み重なって、そこにバクテリアとか、ベントスが住んで、それを鳥が食べにくるのです。いきなり荒い山砂が入ると、粒径が荒く、固体と海水が接する全体の表面積が狭いですから一番もとになるバクテリアがほとんどいない。人工千潟の造成は結構難しくて、単に砂を入れればいいというものではなく、ちゃんとシルトがつくように、前面の波を制御して、緩やかな流れにするようにしないと生物の棲む干潟はできないのです。ということは、干潟は埋め立ててなくすのは簡単だけれども、もう一度自分で作ろうと思ったら、ちょっとやそっとではできないのです。莫大な費用がかかることになります。
埋め立ては現在の瀬戸内海の一番の問題です。昭和40年から平成2年までの各年の埋め立ての認可面積を見ると、昭和48年(1973年)に瀬戸内海に環境保全臨時措置法ができるまではものすごい量だったことがわかります。この臨時措置法の中に埋め立ては禁止するという条項があるのです。しかし、この法律にはただし書きがあって、公共の福祉に関する埋め立ては認めると書いてあります。そのただし書きを使って、臨時措置法施行以後も埋め立てはなくならないのです。臨時措置法施行以降で一番大きい埋め立ては関西空港です。その埋め立て面積は突出しています。
神戸空港や、愛媛県の織田が浜埋め立ては違いますが、現在の瀬戸内海のほとんどの埋め立て地は実は廃棄物処理用埋め立てなのです。大阪のフェニックス計画も、京阪神で出てくる産業廃棄物、あるいは最終処分場としての行き場のない廃棄物、陸に捨てる場がないから海に捨てましょう。ついでに陸を作りましょうということになって埋め立てが続いている。それをやめさせることは非常に難しい。海の方としては浅いところを埋め立てるので特にまずいのですが、浅い場所の埋め立てをやめさせるには廃棄物そのものの量を減らさないといけない。陸には我々が住んでいるのですから、だれでも隣に廃棄物処理場ができるのをいやがるのです。それで現在は廃棄物を海に持ってきて一石二鳥になっているのです。これをやめさせようと思えば、基本的には社会そのもののあり方、価値観そのものを変えなければいけない。
■環境倫理
現在は不景気でみんな大変と言っているが、今までの戦後の日本、世界というのは、経済効率に最も価値が置かれていたのです。そのような経済効率から、人口、エネルギー、CO2が、有限な地球の中であふれようとしているわけですから、いかにものを地球の上でうまく循環できるかということに価値を置き変えなければいけない。生物も含めて、いかに違う種類の人間、生物がうまく共生できるか。すべての生物、人間が我々の生存を支えているということははっきりとしているのです。ものをうまく循環させるためには、どこかで我々の欲望に抑制をかけなければいけない。これは最後に話す環境倫理の話に関係がありますが、昔は社会にタブーがあったのです。これをしてはいけない、これをしてはいけない。もちろん迷信もありますが、ある意味では結構合理的なタブーもあった。このようなタブーを設けることによって、森が守られた、水が守られたということがあったと思います。それが今の世の中にように、人々の欲望に歯止めの効かない状態に変わってきたということがあると思います。
そのような価値の転換は個人だけでできるわけではなく、社会のシステム、制度そのものを変えていかなければいけない。今や市場経済は半分破たんしています。どこかで歯止めをかけて、循環経済というか、新しい経済システムを作る必要があるのではないか。動脈経済、作るばかりのことが重視される経済ではなく、静脈経済、処理する方の経済もきちんと考えなければいけない。いかに作ったものを分解して、もとの新しい資源にもどすかということです。それを社会全体できちんとやっていかなければいけない。
技術革新も効率よくものを作る技術ではなく、適正な技術、例えば地域・地域のスケールの規模で循環を完結させるための適正な技術を確立させる必要があるのです。