COD規制で、海域のCOD濃度はほとんど環境基準をクリアーしていますが、こういう状態が起こるのはなぜかといいますと、陸から入ってくる排水中のCODは少なくなったのですが、廃水の中の無機物が増えているからなのです。
それはDIN、DIPというかたちで、窒素やリンが、それまでは有機のかたちで入ってきたものが処理されて、無機のかたちで瀬戸内海に入ってきているわけです。それが海の中に入ると、プランクトンに取り込まれて有機物に変わり、底層に落ちて酸素を消費して貧酸素水塊を作るのです。したがって、現在環境庁は、環境基準をCODから「TN/TP」というトータルの窒素、トータルのリン濃度という指標を加えて、N、Pそのものを規制しようということで、大体海域の濃度指定が終わったところです。例えば、来年から実際に海域の濃度基準が決まって、各工場からの窒素、リンの排出をこうして減らすという削減計画を出さなくてはいけないことになっています。瀬戸内海の水質に関して言えば、いずれはクリアされる、逆に排出負荷を少なくして、水質基準をクリアするようにもっていかねばならないのが今の状態であると思うのです。それはそれほど無理ではないと思います。実際にはその他のいろいろな問題がまだ残っているわけで、このような瀬戸内海の問題を我々は今からどう考えていけばよいのかということが、今日のメインの話題となります。
それを考えるまえに、そもそも瀬戸内海という海に対して我々の祖先はどのようにつきあってきて、我々が今どうつきあっているのかを明らかにしなければならない。そしてそれを元にして、将来どうつきあっていけばよいのかを考えてみようということです。
瀬戸内海というのは、我々沿岸の住民にとって「道」と「畑」と「中庭」の3つの役割を果たしてきたと思います。「道」は言うまでもなく航路です。これが瀬戸内海の最も古い使われ方です。海水があるかぎり、今でも同じように使われています。最も古くは愛媛県の縄文遺跡などで出てくる「黒曜石」(矢じりに使った石ですが)は、大分県の姫島から来ているわけです。つまり愛媛県で出てくる矢じりの黒曜石は、国東半島の先端から運ばれてきたのです。
当然縄文時代ですから、丸木舟を漕いでやってきたわけで、そのころから人々にとって陸を行くよりは瀬戸内海の中を行くことの方がはるかに容易だったのです。
そういう道としての役割は、有名な熟田津の歌からも伺えます。斉明天皇が難波から那津に向かうときに、松山で1ヶ月以上滞在されたわけです。そのときに歌われた熟田津の歌からわかるように瀬戸内海航路は非常に重要な航路で、かつ伊予という国は軍兵を集めたところとしての非常に重要な役割を果たしていたのです。さらに遣隋使、遣唐使が通りました。また平清盛は瀬戸内海の海上交通路としての経済的価値を最初に見つけた人だと思います。それまで那津(福岡)で降ろされて、小舟で京まで運ばれていた貿易物資を、直接福原(今の神戸)まで運ぶようにして巨大な富を得たわけです。そういう役割というのは当然我々にとっては「道」としての価値なのです。その他、江戸時代には北前船が盛んに航海しました。朝鮮通信使なども通いました。とにかく「道」としての瀬戸内海の役割は明治に入って、山陽本線が通過するまでは日本のメインのルートであったわけです。
次は言うまでもなく「畑」としての役割です。漁業が非常に盛んですし、今は塩田はなくなりましたが、かつては日本の塩のほとんどを瀬戸内海の塩田がまかなっていたわけです。
「中庭」、つまり美しい場としての瀬戸内海は、須磨の海岸とかもそうですが、歌枕として詠まれていたところ主でした。明治に入って外国人が上海から神戸に行く航路を使うときに、この瀬戸内海の中をずっと通って、エーゲ海のような地中海のいろいろなところと比較して、その美しさを世界に宣伝したのです。それが日本に逆輸入された。瀬戸内海という言葉自体は、明治の初めまでなかったわけです。つまり我々の祖先は、伊予灘や安芸灘という灘単位で海を認識していたけれども、瀬戸内海全体を海として認識することはなかったようです。名前がないというのはそういうことだと私は思います。明治に入ってこういう「中庭」としての瀬戸内海全体の美しさの機能をもとに名前が付いたのだと思います。
私が強調したいのは、「畑」としての機能がやはり瀬戸内海のメインの役割にならなければいけないということです。