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そして驚くことに、英国1国が使う使用量と同じ量を瀬戸内海で精製していたのです。さらに当時の瀬戸内海の粗鋼の生産量は1年当たり5240万t、これは同じく日本のその当時の粗鋼の全生産量の44%で、西独と仏の総生産量と同じ量だったのです。それほどの量をこれだけ狭い瀬戸内海という領域で生産していたわけです。

当然それだけの工業生産を行っていて、いろいろな廃水を出していたのですから、環境がただですむわけがありません。

瀬戸内海の環境汚染の上つの指標として透明度を考えます。透明度とは、直径30cmの白い板を海面から下ろして、いくら深くなるまで見えるかという数字を表したものです。明治時代の非常に古い透明度の記録がありますが、当時は瀬戸内海全域で平均すると、透明度は9mを超えていました。しかし先ほど言ったように、新産業都市法案ができて瀬戸内海の重化学工業化が進み、1970年当時(昭和45年くらい)には、平均透明度は8mから一挙に6mまで急激に落ちていくわけです。そしてこの間が海岸に工場ができて、どんどんフル操業を始めて廃水が出始めたのです。このころは日本全国でそういうことが起こっていて、これでは環境がたまらないということで、1971年に環境庁が発足したわけです。たまたまこのときにDDTとかBHCの使用が禁止されました。1970年には同じくPCBの生産が禁止されたのです。

瀬戸内海では、透明度が低下すると同時に、赤潮の発生件数が増えて、1976年には年間300件近くまで発生するようになりました。その後赤潮の発生件数は減って、現在は年間100件程度で横ばいの状態です。これは何が一番効いているかといいますと、1973年に施行された「瀬戸内海環境保全臨時措置法」です。この臨時措置法の主な目的は2つあって、一つは、瀬戸内海へのCOD(chemical oxygen demand)負荷を半減させるということです。水に溶けている有機物の中で化学的に分解される量、つまりCODの値が高いほど有機物が多くて汚れているということですが、廃水の中のCODの量は、1969年ころ、瀬戸内海全体で1日1900t出ていました。その結果急激な汚れの進行とともに、ご承知のように「お化けハゼ」ですとか「背骨の曲がったボラ」というのが瀬戸内海で多く取れていたわけです。

これを止めるため、瀬戸内海環境保全臨時措置法というのは、COD負荷を半減させる、1900t/日を950t/日まで減らしなさいということで、各工場に排出削減を割り当てたわけです。実際この規制はかなり達成されて、80%まではいっているのです。しかし完全に100%目標達成とはいかず、現在のCOD負荷量は、大体1000t/日くらいだと思いますが、そのくらいで横ばいになったまま100%は達成できていないわけです。そのような半分近くの廃水規制があったので、瀬戸内海の汚れの進行はストップして横ばいになっているのです。そして、赤潮発生件数横ばいになっています。それがまず瀬戸内海の一つの状態です。

言ってみれば、最悪の時期は脱して、今ある定常状態になっているわけです。これをさらによくするためには、つまり本来はこのあたりの海というのは、漁業のところで少し話しますが、まだ透明度が昔に戻っていません。瀬戸内海の平均透明度を8mまで上げて、赤潮の発生件数を年間10〜20件にするには、どうしたらいいかという問題が大きく残っているのです。特に今CODはかなりよくなったけれども、実際に海はまだ汚れていて、汚染の回復は十分ではないという一番の大きな証拠は、貧酸素水と先程言いましたが、赤潮になったプランクトンは栄養源を食い尽くすといつまでもずっと生きてはおられず死んで底層に沈むわけです。底層に沈むと有機物は海の中のバクテリアによって分解されます。そのとき酸素を使いますから、夏には海底の底層に酸素がなくなるのです。

瀬戸内海の夏の間の平均の底層の酸繁の濃度をランクに分けた図を見ると、ランク4のところ、1l中に溶存酸素が2〜3mlしかないというところ、がいくつかの海域で現れます。こういう状態になると魚がほとんどいない、ベントスも生きられないわけです。したがって生物には最も悪いわけです。このランク4が現在でも大阪湾の奥とか広島湾の奥、それから周防灘の深いあたり、別府湾の奥で出てきます。

 

 

 

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