そこでまたハッと気がついたわけです。それはなぜかといえば、私たちの住んでいるところは「三陸リアス式海岸」といいますが、海と山が非常に接近しておりまして、そこに小さい川がいくつも流れこんでいます。湾の奥のリアス式海岸には必ず川が流れ込んでいるわけです。
私は子どものころから、主に夏になるとメバルという魚を釣りに行くのです。このメバルを釣るには、餌として一番いい餌はエビなのです。生きたエビがあれば、必ずいい形のメバルが釣れるのです。釣り針にこのエビを掛けて下ろしてやると、メバルが来るでしょう。そのときにエビがピンピンと逃げると、メバルが狂ったようにこれを追いかけて来るわけです。だから、釣りをするときには生きたエビが必要なのですが、これが川にいるのです。だから私は小さいときから、海でも遊んでいましたが、エビをとりに川にも行っていたのです。そのエビがどういうところにいるかというと、広葉樹がワーツと茂った木の陰です。そういうところにこのエビがいるのです。それで、フランスのロワール川の上流へ行って、上流の広葉樹の森を見たとき、「あっ」と思って、「そうか、その森林と川と海は一緒だな」と、それで石巻の北上川のこととか、種カキのことなどもあらためて考えたわけです。
私は子どもたちを海に招いて、自然界のメカニズムはどうなっているか、体験学習させています。今年で大体5000人の子どもを海に呼びました。子どものときの原体験です。私が子どものころ本物の自然をよく見る経験をしていなかったら、フランスへ行ってもたぶん比較できなかったでしょう。
ですから、結論から言ってしまえば、海洋汚染防止も最終的には人間に帰ってくるわけです。つまり、人間がどういう気持ちで生活するか、ということに帰ってくるわけです。
ロワール川河口の町でこの前サッカーがありましたが、ここは昔なぜ栄えたかと言いますと、毛皮です。クマとかシカとかイノシシという毛皮の産地として栄えたのです。毛皮がたくさんとれるということは動物がたくさんとれるということで、実のなる木がたくさんあるということです。つまり、杉山とか松山では毛皮がとれない。動物が生きられないわけです。実がならないから。それで「あっ!」と思いました。つまり、これは陸上の動物とか鳥とか、そういうものを育てられる森が、結局は海まで影響しているとわかったのです。
気仙沼湾に流れ込んでいる大川の上流に、「森は海の恋人」を標榜して木を植え続けて、今年でちょうど10年になりますが、きっかけはそういうことだったのです。
■魚介類の宝庫「リアス」
いろいろやってきたのですが、最近になって、宮城県人でありながら、しかも三陸リアス式海岸の真っただ中で私のようにその恵みを受けて養殖業をやっていながら、ある重要な言葉の意味を知らないまま生活していたということに気がついたのです。それは「リアス式海岸」の「リアス」はどういう意味だろう、ということなのです。皆さんはいかがでしょうか、「リアス式海岸」は必ず社会の教科書に出てきて、三陸海岸に代表される複雑に入り組んだ海岸だと教えられます。私も四十何年前に小学校でそのことを学んで以来何の疑問もなく育ってきたのです。
ところが、2年ほど前に、スペイン料理をやりたいという方が家へ来て、私のところは唐桑町の舞根(もうね)湾という小さな入り組んだ湾なのですが、「ここはガリシアみたいね」ということを言ったのです。「ガリシアって何だろう?」と。私たちは「ノコギリ」のことを昔「ガンガリ」と言ったから、「ガンガリのことを言ったのかな?リアス式海岸というのはギザギザでガンガリの歯みたいだから、そのようなことを言ったのかな?」と、ふと思ったのです。実は「リアス式海岸」の「リアス」はスペイン語であるとそこで初めてわかったのです。
家に学校の先生なども子どもを連れてしょっちゅう来るのですが、その先生方に聞いても誰ひとり答えられる人がいないのです。どこの言葉であるか。しかも、リアスはどういう意味かもほとんどの人は知らないでいるわけです。私も木を植えて、「森は海の恋人」なんてやってきたのですが、その意味を知らなかった。しかし、この意味の中に実は自分たちが10年かけてやってきた「森は海の恋人」という言葉の本質があることにやっと気がついたのです。