私自身の問題として申し上げたいのは、私は農業を3年ほどやりました後に改良普及員になりまして、そのあと農業高校の教員をやって、今、高校の講師を週に少しばかりやっておりますが、小学校、中学校、高校におきまして環境問題を教科書にどんどん取り入れる動きをすべきではなかろうかと思います。
ちょっと今日のシンポジウムの趣旨になじまないかもしれませんが、宇根先生にお尋ねしたいのです。私はずっと農業に関係してきまして、一貫して頭から消えませんのは「百姓」という言い方なのです。これはおかしな質問ですが、先程、「百姓」とか「漁師」という言葉をお使いになりましたが、私はどうしてもこの「百姓」は、生かさず殺さずの言葉が頭から消えませんで、何とかこれに代わる言葉がありはしないかと、もう40年近くそればかり考えていますが、どうしてもないわけです。もしございましたら、教えていただけませんでしょうか。
【宇根】「百姓」に代わる言葉は、やはり「農家」とか「農業者」とかいろいろ試みられた結果、全部失敗しています。というのは、「百姓」という言葉に対する基本的な認識が間違っていたと。そこから言い換えをいろいろ考えてみても、やはりいい言葉が出るはずはないし、定着するはずはない。世の中の風は、「百姓」という言葉をむしろ積極的に評価していこうというふうに吹きはじめました。僕は県庁の役人ですけれども、県庁の役人で「百姓、百姓」と言うのは、たぶんほとんどいないと思います。だから、僕は「百姓、百姓」という言葉を使うがゆえに、どうも出世できないのです。
ただ、ひょっとすると僕も出世できるかな、という予感を抱かせるのは、例えば歴史学がすごく見直されて、「百姓」という言葉は決して差別的な扱いをされていなかったと。百姓は殿様の家来ではなくて、ただ年貢という納税義務を負っていただけで、村の中は自治が結構行われていたし、年貢さえ納めれば百姓は自由とは言わないけれども、かなり自由人に近かった。しかも、年貢だって、五公五民とか言われていたのではなく、実際はほぼ10%程度だったと。百姓は、村の中だから、言葉は悪いけれどごまかす。悪く言えば、きちんと自分たちの生活を保持していたわけです。それを武士が気づいて税金を上げようとするから、江戸時代中期から後期にいたって百姓一揆が頻発した。しかも、百姓一揆もかつては我々すごく悲惨な結果に終わっていたというふうに習っていましたけれども、どうも最近の研究では百姓一揆もだいたい7〜8割は百姓がほとんど勝利していたというふうに歴史学が根本的に書き換えられてきています。
そういう中で、我々も「百姓」という存在をもう一回見つめなおして、問いなおして、そこから「百姓」という言葉ももう一回考え直していくというふうにしていけば、「百姓」という言葉はかつて我々が教えられた歴史学の上に成り立っていたイメージとしての「百姓」ではなくて、また新しい意味を持った言葉としてよみがえる可能性がある、あるいはよみがえりつつある。だから、佐藤さんもあまり悩まずに、もう一回、「百姓」というのを掲げられたらどうですか。
【小野】ちょっと主題から外れておりますが、言葉の問題は大事ですから、宇根さんのお答えで、両方とも言いっぱなし、とさせていただきます。
もう一度、「海と陸」というところに話を戻して、ご質問をお願いいたします。
【会場4]】福岡魚市場の者ですが、福岡県水産物卸売市場協会の方から「何か言わなければいかんぞ」と言われて出てきました。今日は非常にいいお話をうかがいました。私どもも魚市場におりますので、海のことを非常に心配しています。特にエルニーニョの影響で非常に海の状態がおかしい。生息している魚自体も非常に悪くなっている。脂のノリが悪い。全般的によくない。いつまでもそういうわけではないでしょうが、早く台風の一つでも来てくれなければいかんな、という状況に今あります。
今日勉強しましたことは、港湾部というものが非常に大事なところだ、と。博多湾にしてもそうですけれども、大阪湾でも東京湾でも、昔の人たちがそこに住まって文化が発達してきた。それを今、みんなで壊している。原因の話はいろいろ聞きましたけれども、港湾部の大事さというものをどうしていくのでしょうか。