福岡ではそんなことはないと思うのですが、東京から船で伊豆七島の方へ行く定期便があるのですが、その船に乗りますと、そもそも東京湾の中が汚いですから、コーヒー色をしているわけですから、そこから船に乗って出ていっても海というのはこんなものだと思ってしまうわけです。とかくそういうふうに思ってしまう。コーヒー色をしているのが海だと思ってしまうわけです。それで、大島の方へ行くわけです。そうすると、だいたいその辺で日が暮れたりして見えなくなってしまう。ところが、逆に、朝伊豆七島を発って東京湾の方へ入ってくる帰りの便にお乗りになると、伊豆の大島をかわしたあたりで水の色がまったく変わるのです。それが、狭い範囲内ではなくて、ベタ一面広い範囲にわたってコーヒー色になっています。それが延々として東京湾まで、だいたい東京湾から出ている水なのですから、続いている。これは、青い海からコーヒーの海に入っていく場合には非常によくわかるのです。こんなにひどく海が汚れているのかと。私たちのように海のことをよく見たり聞いたりしていても、本当にあっけにとられるということです。東京湾というのは海ではない。あれは、私はとても海とは言わない。もし、海の無限大の希釈力があるとすればもっときれいであっていいわけですれども、東京湾の海の色がべたつとあれにはりついている。あれがいつになったらきれいな水になるのかちょっと想像できない。私たちはいつでも、海の方から汚染の問題を見直してみるという必要があるのだろうと思います。
システム全体を管理することによってどうしたら汚染の問題が対応できるのだろうかというのは、これはいろいろな専門家の先生方のご意見を聞いて研究していだたくよりしかたがないのですが、今、必要なことは、海の問題を海の人たちだけが考えたってどうしようもないということです。例えば、漁業生物学者というのがいる。私もその一人なのですが、イワシが減ったり増えたり、ニシンが減ったりというようなことを研究の対象にするわけです。イワシを見ていただけでは、イワシをいくら何万尾、何千尾取ってきて、解剖してみたって、イワシの問題は解決しないです。あれは、海の中にいるイワシ以外の生物を調べないかぎりはイワシの問題は解決しないわけです。それとまったく同じように、海の問題を解決しようと思ったらば、その部分の海の研究をいくら積み重ねて研究と経験を踏んでも、海の問題は解決しないと思います。陸系と水系の研究者、あるいは陸系と水系の中に生活している人たちが一緒にならないと、私は海の問題というのは解決しないのだろうと思います。
生物学者は、我々はよく海へ行くと、まず海の方を見るわけです。海の色を見たり、海の温度を調べたり、海の塩分を調べたり、あるいはそこでプランクトンネットを引いてみたり、そういうことをしょっちゅうやっているわけです。しかし、そうやっている間、一度も海でない陸系の山のことや森のことは見たことがないです。そういう研究をいくら積み重ねていっても、私は海の問題はわからないのだろうと思います。先程も申し上げたとおり、森から出発して河川を通って海へ流れる。その水は大したことはないではないかとおっしゃるかもしれませんけれども、今日は時間がないので申し上げられませんが、河川水、あるいは淡水、地下水を含めまして、海の中でどれくらいお魚の生産にとって重要な役割を果たしているか、最近いろいろな方面で研究が進みつつあるのだろうと思います。私は、そういう川の水の、あるいは淡水の配慮がなくて、海の漁業生物学というのはもうそろそろ成り立たなくなっているのではないかなというふうにさえ考えております。
■システムは流域住民が管理すべき
もう時間になってしまいました。
もっといろいろお話がありますけれども、システムとして考えなければいけないということ。
それから、もうひとつ、システムとして考えるのはよくわかった。だけど、いったいそれはだれがやるのというお話があります。
だれがやるのというのは、決して国がやったり、県がやる仕事ではないわけです。私は、流域の管理(システムの管理)というのは、その流域に住んでいる人たち、流域の住民が主人公になった管理をすべきだと思うのです。それは、東京で、あるいは中央官庁が「ああしろ」「こうしろ」という話ではない。