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よく夏になりますと、これは福岡もそうだと聞いたのですが、渇水がありまして取水制限というのをやります。東京でもときどきやるわけです。取水制限というのは一番最初に何をやるかというと、生活用水の制限をやるわけです。我々が利用できる時間を、1日のうち時間制限をやるわけです。場所によって多少違うのですが、多くの場合に、工業用水というのはあまり制限しないのです。ましてや、農業用水というのは制限がないわけです。農業用水が制限されたら困る。工場でもそうです。しかし、18%の生活用水を制限してもあまり効果がないわけです。つまり、水自身の使い方にかなり偏りがあります。したがって、我々は水全体としてどういうふうに利用したらいいのかということを考えなければいけないのではないか。

 

■海の問題

私は水の専門家ではないので詳しいことは存じませんが、その水はいろいろなかたちで海へ入っていくわけです。海へ入れば、先程申し上げましたように、そこで一段落、やれやれということになるわけです。ところが、我々の問題はそこから始まる。海というのはまだまだ森や川と違っていて、どこの海も、どんなところでも、所有者がいないのです。つまり、難しい言葉で言えば無主物と言うのでしょうか、別の言葉で言うと共同利用物という言い方をしてもいいのだと思います。「あの海は俺のものだ」という人は一人もいないわけです。みんなが共同で利用できるような状態に海というのはなっています。ですから、海はそういうふうにして川からいろいろなものが流れてくるわけです。流されて海に入ってしまったならば、共同利用物なのです。共同利用物の中に入ってしまえば、それは流した方から見ればしめたものです。あとは文句の言いようがないわけです。所有者がいないのですから。

ですから、よく言われることですが、「共有物の悲劇」という言葉があるのだそうです。これはヨーロッパなどで牧場を利用する問題から出てきた言葉なのだそうですが、みんなが同じように同じ権利を行使できるようなもの(共有物、共同物)というのは、原理原則は非常にいいのだけれども、すぐに行き詰まってつぶれてしまうというお話です。よく似ているのは、町に公園を造ります。その公園にブランコだとかいろいろなものを役場のお金で造ります。しかし、だれが使ってもいいというと、そういうところは完全に荒れてしまうわけです。よほど規制をしないと荒れてしまって、公園の機能を発揮しなくなるということがあります。あれに非常によく似ているわけです。海はまきにそういう状態になっています。

海にものを流してしまうと、それはそれで一件落着という感じはわからないではないのですが、海というのは巨大な水の塊ではないのです。海の中には、たくさんの水塊が集合しているわけです。それは、あたかも生物の細胞とよく似ています。どこをとっても均一な水の集団ではないのです。我々は、とかく海を均一の大きな水の塊だと考えやすいわけです。それは海に対する大変な誤解なわけです。ですから、海にインクを一滴垂らしても、それはその一滴のインクが世界中の海を母数にして希釈されると考えやすいわけですが、それはまちがっているわけです。海というのは、小さい水塊の集合ですから、ある悪い河川水が流れ込んだとします。それはその水塊の中でしか希釈できないのです。ですから、いつでもそこに溜まっています。

あれをご覧になるとわかります。ロシアの船が油を流してしまった。あれは、特定のところにみんな集まって、1ヶ月たっても2ヶ月たっても消えない。無限の希釈力なんていうのは海にはないわけです。その一つ一つの小さい水塊が、そこで住む生物の生活の場になるわけです。ですから、向こう側の水塊には何の影響がなくても、こちら側の水塊にある汚物が流れると、そこに生息している、あるいはそこで成長していくような生物というのは壊滅的な打撃を受けるわけです。そういうものの集積だというふうに海をお考えいただければいいと思います。太平洋の真ん中へ行きますと、海は白くて大きいし、きれいです。だから、東京の周辺で少しぐらい海が汚れても何でもなかろう、何とかなるよ、それは時間が10年たち20年たてばきれいな水で希釈されてしまうよ、という考え方は成り立たないわけです。

 

 

 

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