あるいは、川だって同じでしょう。海だって同じです。魚が一匹もいない川とか一匹もいない海よりも、やはり魚がいっぱいいる海の方がいいような気がしますよね。実感として、人間は生物多様性を受け入れているのでしょう。
だけど、一時不幸な歴史がありました。田んぼに行く。害虫がいる。「うわっ、今年もまた害虫がいっぱい飛んできている」と、やっぱりいやな気持ちになるのです。「全然飛んでこないければいいのに。一匹もいなければいいのに」と、例えば農薬をふる。一見、一匹もいなくなるぐらい虫が死んでしまうわけです。スカッとする。そういう時代がありました。でも、今となって振り返ってみると、それがまずかったのです。一匹残らず害虫を根絶やしにしよう、一本残らず雑草を根絶やしにしよう。こういう目的でどんどんエスカレートしていって、いい農薬を求めていく。これが、いろいろな生き物がいた方がいいんだな、という感性を麻痺させていったような気がします。
今、我々は虫見板を使って農薬をどんどん減らして、少なくとも全国的に水田に関しては、福岡県というのは農薬を減らす運動が一番進んでいるところです。僕は糸島の二丈町に住んでいます。糸島には「環境稲作研究会」というなかなかおもしろい研究会が100人ぐらいで組織されていまして、だいたい地域の1割ぐらいの面積をそのメンバーが作っています。そして、そのうちの半分ぐらいが完全に無農薬です。除草剤も殺菌剤も殺虫剤も使ってません。地域の水田面積の5%が完全に無農薬でやられている地域は、日本全国でたどんないと思います。宮崎の綾町がひょっとしたらあるかもしれないというぐらいです。そんなに有名なところでもありませんけれども、そういう地域で百姓は何を言っているかというと、「少しは害虫も飛んできてくれないと困る」と。かつては害虫なんか一匹もいない方がいいと思っていた人が、「少しは害虫もいた方がいい。いないとやはり心配だ」。だって、害虫を食う益虫のために害虫もいないといけないわけです。そういうふうに気持ちが変わってきています。
それと、もっと大事なことは、ただの虫を認識しはじめてから、結局、役にも害にもならない生き物というのは田んぼの中にほかにいっぱいいる、ただの虫はいっぱいいるぞ、と。例えば、メダカというのは、稲作りにとってひょっとしたらプラスかマイナスになっているのかもしれませんが、少なくとも我々はわからない。害にも益にもならないです。あるいはホタル、ホタルがいるからといって稲が増収したという話は聞きません。あるいはゲンゴロウ、ゲンゴロウがいたからどうということはないですね。だけど、そうやって害にも益にもならない生き物が田んぼの中にはいっぱいいるぞ、ただの虫がいっぱいいるぞ、「ああ、そうか。これが自然なんだ」、つまり、害にも益にもならないものをいっぱい育てている。こういうのを我々は自然の生き物と思って暮らしてきた。そのとき、僕自身も、我々の仲間の百姓も初めて自然の本質がわかったのです。「ああ、自然というものはこういうものなんだ」と。
もちろん、メダカとかゲンゴロウとかホタルを育てたところで、大事にしたところで、一銭にもなりません。それに報いるような農業政策も国民的な文化も、今は日本にはありません。いまだにないと言うべきですか。
■田んぼ←→川
田植え(しろかき)が終わると田んぼの水が川に流れはじめます。田んぼに水を入れて、もうその日のうちにミジンコがいっぱい生まれてきます。その水が川に流れ落ちる。そうすると、川を泳いでいるメダカとかドジョウとかフナやコイが、「おっ。この水はいい水だ。餌がたっぷり入っている。よし、この水を逆上っていって、そこで卵を産めば、自分の子どもはスクスク育つだろう」と思うのではないかと思います。そして、田んぼに逆上って産卵をします。そして子どもが生まれて、また川に戻っていくわけです。
かつてはメダカ、ドジョウ、フナ、コイというのが田んぼの中でいっぱい卵を産んで川に多かったわけですが、最近は本当に少なくなりました。それはどうしてかというと、農薬のせいでも何でもないのです。圃場整備のせいです。僕は圃場整備が悪いと言うつもりはありませんが、少なくとも現在の圃場整備は生き物のことはまったく考えていません。いかに稲の生産の効率を上げるかだけです。