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海難体験発表

   生きていればこそ

えりも町漁業協同組合
本間 也幸

 皆様もご承知のとおり、えりも町は岬を中心に東側、西側と分かれており、なおかつ風と波の強いことで有名であります。そのため、海を相手に仕事をしている私たちにとっては、非常に厳しい条件での操業を余儀なくされている次第であります。  私の体験した海難は、平成4年11月17日、父と一緒のハタハタ漁のときに起きました。
 事故当日は、時化の後でまだ多少磯波が大きく残っている状況で最後の残骸網を整理しているときに起こりました。
 通常波のあるときは、陸から沖へ向かって揚網しますが、その最後の一本に限り、途中で切れていたので沖側から巻き直しました。
 沖側のボンデンの下側は、合間がありましたが波が高く、折っていた状況でした。巻き始めてすぐ網がダンゴ状態で揚がってきました。それをさばくのに気を取られているうちに、船は波のある方へと流され一瞬の間に転覆してしまいました。私はその時救命衣を着ておりませんでした。父は着ておりました。私はブリッジの中にいました。
 転覆と同時に予期せぬことの連続です。まずいと思った瞬間、目の前が真っ暗になりました。そしてブリッジの、戸も閉まりました。通常、ある程度次の事態に対してどう対処するか余裕があったつもりでしたが、この時ばかりはまったく気が動転してしまい頭の中は真っ白になりました。
 まず、外に出るのに手探りの状態で何とか戸を開け脱出しました。転覆した船の船底に、父とともにはいずり上がり助けを求めましたが、付近には船がいません。容赦なく襲ってくる波に私たちは、船からほろわれてしまいました。
 泳ぎに多少自信のあった私は、父に「陸まで泳ぐよ」と言い、泳ぎ始めましたが潮の流れで全然前へ進みません。最初元気のよかった私も海水を飲むたびに体が沈むのがわかる状態でした。
 父は、体力的に限界に達している私を見てつかんでくれました。しかし、私をつかむことで父の体も沈むのを見て、覚悟を決め私を放すように言いました。当時、私には妻と3人の子供がいました。ここで、男2人死ぬよりも父だけでも助かって、残される子供たちの面倒を見てもらわねばと混乱する頭で考えました。
 そうこうするうち、わたくしの記憶はなくなり、気がついたら病院でした。後に、救助した人から聞くと私は水面に顔をつけた状態でもうダメだろうと思ったそうですが、父が必死に捕まえていたそうです。
 父がもし救命衣を着ていなかったらと思うと今でもゾーっとします。
 以前、私も救命衣を着たこともありますが、暑い、違和感あり、作業するのにじゃまになり、また、袖口から水が入ったりで着るのをやめてしまいました。
 でも、この事故以来、自分のため、、家族のためそして仲間や社会に対する責任のため着用しております。
 「生きていればこそ」という言葉は、生きている人間のみが味わえる言葉です。
 恋愛、家族愛、隣人愛、生きていればこそ味わえるのです。
 皆さんにも大切な人はいると思います。生きていなければその人を守れないのです。
 そのためにも、命をつなぐ救命衣は必要不可欠と思います。また「無理のない安全操業」ということもこの体験から得た私の大きな財産であります。

 

 

 

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