早稲田時代の学友で、当時神子元島灯台に勤務していた古賀安治氏を訪ねて行ったのである。島には、約1週間滞在し、その滞留したおりの深い感動を「秋風の海及び灯台」と題する歌集で、80首余の大作を詠み、また小説「灯台守」(この小説は、歌人大悟法刊雄氏の計らいで若山牧水先生未亡人喜士子様の承知を得て、昭和5年4月燈光会発行月刊機関紙燈光第16巻4号に掲載された)と小品「烏三題」を生んだ。
下田港より灯台用便船に乗りて神子元島に渡る、一木なき岩礁なり
おおいなる岩のいただき黒蟻と見えつつ友はものを振りおり
友がよぶ赤き断崖(きりぎす)見あげつつ舟をつけむと浪とあらそふ
顔の蒼み人に餓ゑたる磯心地火の如き手をとり合ひにけり
歩みかねわが下駄ぬげばいそいそと友は草履をわれに履かする
友よ先ずわれの言葉のすくなきをとがむな心なにかさびしきに
相逢ひて言葉すくなき友だちの二人ならびて登る断崖
語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ
友酔はずわれまた酔はずいとまなくさかづきかわし心をあたたむ
さらに、「神子元島は島とはいうものの、あの付近の海に散在している岩礁の中の大きなものであった。赤錆びたひとつの岩塊が鋭く浪の中からたっているにすぎなかった。島には一握りの土とてもなく、草も木も生きてはいなかった。其処の1番の高みに白い石造りの灯台が聳え、灯台より1寸下がったところに、岩を刳り抜いた様にして灯台守の住居が同じく石造りで出来ていた」
牧水は、灯台訪問に際し、結婚して間もない友人の夫人のために東京からダリヤの花の束を土産に持参した。夫人はダリヤの花の贈り物を喜び、その花を活けて窓のところに置いたという。
この滞在期間中に、牧水は、古賀氏から灯台守になることを誘われた。生活の安定、時間の余裕のあること等を考えて「灯台守になる、ならぬの考えが終始身体につき纏って」「頭にこびりついてしまった」と楽しい空想が幾度となく頭をよぎったことを7、8年後の作品の中で述べている。
この町の作品に
「その窓にわがたずさえし花を活け客をよろこぶその若き妻」
など22首が詠まれたが、その中の
友が守る灯台はあはれわだ中の蟹めく岩に白く立ち居り
という作品が、1980年の秋に神子元島灯台と指呼の間にある下田市恵比須島に歌碑として建立された。
台石は富士ぼく石と自然の岩石を活用し、碑石は潮風に耐えるため真鶴産小松石の高さ1?30、横2?40、台石の高さ1?、横3?70、奥行き1?80の堂々たるもので、あたかも神子元島灯台に向かって悠然と腰を下ろしているかのようである。
牧水先生の子息若山旅人氏夫婦ならびに牧水先生の高弟として牧水研究とそれに関する著作の第1人者である歌人大悟法利雄先生を迎えて除幕式を行うにあたり、その当時下田海上保安部の灯台課長をしていた私の娘が、花束贈呈の役目を依頼された。
60数年前の土産のことを思いお手伝いをする条件として、ダリヤの花を用意するようにお願いした。ダリヤの花の盛りには、まだ間があったが、いわれを知った世話人の熱意と後援会の方たちの努力により、花束だけでなく、参列者全員の献花の分も含めて集められた。
旅人氏は、60余年前の父の贈り物が、こんな形で表現された喜びとして次の歌を詠まれた。
はるけくも神子元島を背に守りて灯台の歌の碑は建ちにけり
闇空にひそめる雲を灯台の灯がめぐり来て照らしては過ぐ
60余年のむかしを偲び咲き満てる大花束のダリヤを賜う
旅人氏の夫人いく子氏は、
灯台の窓に活けられしダリヤなりき歌碑の除幕に献花として夫に渡さる
また、当日除幕式に参列した会員は、
秋陽の下真紅のダリヤを献じけり神子元詠みし牧水の歌碑
神子元の島訪なひし若き日の歌人の心きけば悲しき秋暑き陽にかがやけり献げられしま赤きダリヤは縁の花とぞ
私についても、
花捧ぐ娘の服の衿幾度かなほしやりいし制服の父
とそれぞれの思い、情景を詠っている。
古賀さんを訪ねた時に勧められるままに灯台守になっていたらといったお話を旅人氏夫妻と交わした。