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絵で見る日本船史
     新田丸(にったまる)

 昭和12年4月1日付日本政府の優秀船舶建造助成法が成立し、大阪商船が5隻、日本郵船が7隻の戦前日本が世界に誇る優秀客船の建造助成が適用され、日本郵船では欧州航路用に3隻、新田丸、8幡丸、春日丸、北米航路用2隻安芸丸と阿波丸、濠州航路用2隻三池丸、三島丸と命名した。7隻中の欧州航路用春日丸は、進水直後海軍省に買上げられ航空母艦として生れ変わり、最終建造予定の濠州航路用三島丸は、起工直前に建造中止都合5隻となった。
 日本郵船のNYKに因んで命名された欧州航路用三姉妹の一番船新田丸は昭和15年3月25日に竣工したが、先年9月に勃発の第2次世界大戦のため、欧州航路は中止され北米桑港線(サンフランシスコ)に就航となり、約1年に渡り浅間丸、竜田丸、鎌倉丸と共に就航、純国産の新鋭貨客船として注目を浴び活躍した。
 北米航路処女航海に先立ち同年4月東京芝浦岸壁で、政、官、業界の諸歴々を招き盛大な新造船の披露宴が行なわれ、その時秩父宮家はじめ高松、三笠、賀陽、久遍、梨本各殿下の台覧の栄に浴した。
 続いて4月17日横浜から名古屋まで、学界、文壇の名士多数が招かれて華やかな披露航海が行なわれ、その様子が内田百間著「百鬼園随筆」に紹介されている。
 新田丸の船型、艤装、設備等は先行の浅間丸型と大同小異ながら一本煙突で外観は鎌倉丸より稍細くて長い感じを受け、資材や機器類の殆んどが国産品で随所に大幅な改良が加えられ、2番船舶には重量物用揚貨装置を備えていた。
 総屯数17,150屯で、主機はタービン機関2基、2万1千馬力、速力22.5節、船客定員は1等127名、2等86、3等70計283名で、客室配置や内装設備には格段の改善が加えられていた。
 特色の一つとして当時珍らしい船内冷房設備があり、特に一等客室全部の冷房装置は世界で初めての試みといわれ、大西洋の花形を競い合ったクィーンメリー号や、ノルマンディ号にも、全面的な各個室冷房設備はない時代であった。
 昭和16年7月末の日本・羅府間第7次航海を最後に中止となり太平洋戦争開戦前の9月12日に海軍徴傭船となり11月26日東京湾を出港し、台湾の高雄港へ海軍部隊を輸送したが、この部隊が開戦直後の17年1月セレベス島メナドのカカス飛行場奇襲占領作戦を敢行した、海軍落下傘部隊であったと後日知らされた。
 その後陸軍部隊を再び高雄港へ輸送、その帰途洋上で12月8日の開戦を迎え、続いて上海で海軍陸戦隊を搭載しウェーキ島に輸送、その帰途米軍捕虜を内地と上海へ運び、5月に至り特設航空母艦に改造の命を受け呉に回航した。
 その時既に特設空母1号艦大鷹として就役中の春日丸と、丁度呉で改造中の八幡丸に続き、大鷹型空母3号艦として、呉海軍工廠で改造工事に着手、8月1日に海軍省に買上げられ軍籍に移管、6ヶ月後の12月25日空母沖鷹として完成し連合艦隊に所属した。沖鷹は1号艦大鷹(春日丸)や2号艦雲鷹(八幡丸)の2隻より飛行甲板が長く、幅も広く設計さ、零戦27機を搭載し、高角砲は12.7糎2連装4基、機銃は25粍3連装10基を装備し、先行の2隻に比して性能、兵装共に大幅な改善と強化がなされた。
 完成後は横須賀からカビエンやトラック基地へ戦闘機を輸送していたが、同18年11月30日に僚艦雲鷹、空母鳳翔、巡洋艦摩耶と4隻で、駆逐艦7隻の護衛の下トラック基地を出港した。
 横須賀向け航行中の12月3日夜半、鳥島東方で米潜セイルフィッシュ号の魚雷3本を受け大破、翌4日午前8時過ぎ八丈島の東方約200浬の地点で沈没し、僅か3年半の短い多彩な生涯を終った。

松井邦夫(関東マリンサービス(株)相談役)

 

 

 

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