6月30日午前5時ごろ母船を離れ、真針路122度、36カイリ航走したあと漂泊に移る。午後接舷予定があるといっていたが、早朝到着した冷凍運搬船が午後2時ごろ接舷した。
夕刻より南東の風が強くなる。午後9時より真針路90度、約20カイリ航走する。午後23時ごろより風浪がでてきて動揺がはげしくなり漂泊できないので航行を続ける。
7月1日、午前1時ごろ母船から連絡のセルコーダーが鳴った。レーダーの映像では約7カイリ離れていたが、トランシーバーでの交信では聞きにくいので無線電信で聞くと、母船の風上で待機せよとのことだ。
午前5時ごろより真針路90度にて母船に随伴して航走する。低気圧が3つ続けて北東に進んでいる影響で海は大荒れである。動揺がはげしいので、昼も夜も握り飯という状況であった。
2日朝になっても荒天はおさまらず相変わらず動揺ははげしい。午前5時ごろから真針路224度、約65カイリ航走せよと指示してきた。昨日早朝から約一昼夜、130カイリほど航行したあとのUターンである。うねりの方向は横であり、船はよく揺れる。
午前7時ごろ母船の連絡で真針路42度、約30カイリ航走せよとの指示がある。
気圧計の示度は998ヘクトパスカル殻で天候はなかなかよくならない。午前11時ごろ母船の近くで漂泊する。
午後6時30分、5回目の接舷をした。強い風浪やうねりのためローリングがはげしく、時折船首や船尾の係船索が切断した。うねりや波浪によって船体が母船の舷側に接触するので、本船側の防舷用としてタイヤを2個重ねたのを4組使用した。
また母船側から大きなゴムのエアフェンダーを防舷用としているが、船体をこすりながらきしむ音には身をけずられる思いがする。あまり接触する音がはげしいので、離舷しようかと思ったが、天候回復のめども立たない現在の状況ではなかなか踏ん切りがつかなかった。
母船側も今回の接舷中に本船の積荷予定数量を終了したいとの要望もあり、荒天のなかでの積荷役作業を続けることにした。
船体にいくつか損傷生ずるも
荒天のなか積荷のつづく
7月3日、荒天のなかでの船体のきしむ音を気にしながらの積荷役作業も午前10時に終了する。ハッチの閉鎖作業、デリックの格納、積荷書類などの整理を終り、11時に離舷して横浜港に向かって帰港の途についた。
7月4日午前2時ごろロシアのコマンドルシキー島をレーダーの映像のなかに約15カイリでとらえ、真針路230度に転針する。心配していた天候も大きな変化もなく航行を続行できそうである。
最近の経験では、平成9年3月、シーダーツリー号が沖縄県石垣港を出港、中国大連港に向かった。夜になって海は大時化となり、船の速力は落ちて時には0.5ノットということもあった。
約一昼夜かかって黄尾礁を通過した翌3日の10時ごろは5.0ノットほどの速力であった。GPSで常時船位と速力を確認することができ、状況を把握できたので何の不安もなく航行を続けることができた。
20数年前、十分な航海器具もなく推測航行を主体として、霧の多い北太平洋の仲積船就航当時のことをいろいろと思い合わせてみると感慨深いものがある。