骸骨旗の出現
そして、無敵艦隊の敗北以降、スペイン植民地の弱体化に乗じてカリブ海等に住みついた海賊たちを「バッカーニア」ともいいます。これらのバッカーニアは、西インド方面における諸国間の植民地争奪のための戦争に際しては、しばしば正規の海軍を補うために私掠の特許を得て戦うことを許されていたこともあり、海賊ながらおおいに利用されてきたのに、ひとたび植民地を手に入れると、諸国政府によって獅子身中の虫として追放され、あまつさえ、人類共通の敵にされてしまったのです。
骸骨旗をかかげた一匹狼の海賊たちはこうして生まれ、この時代になってはじめて純然たる海賊が出現したとされるのです(前出、海事史の舞台)。
さて、おなじみの海賊の骸骨旗。ものの本によりますと、これはジョリー・ロジャー(Jolly Roger・愉快な仲間)といい、頭蓋骨に2本の大腿骨を交差させた旗が、最も象徴的でデサインもよくできているので、これが海賊の旗の代表としてよく知られているところです。
この骸骨を描いた黒旗が始めて海上に現れ、獲物の心胆を寒からしめたのは1700年フランス海賊エマニュエル・ウインが、セント・ジャゴ島沖で英国軍艦と戦ったときに始まるとされます。次いでバーソロミュー・ロバーツ、コックリン、ホウエル、デビス等の海賊船がこれを掲げて、正直な貿易商人に対して「降伏せよ、然らずんば汝の運命は此の如し!(抵抗すればお前たちは骸骨になるよという脅し)」と威嚇したものとされます。
なお、ジョリー・ロジャーというのは、解剖学の学徒や博物館などで、ものすごい髑髏や骸骨などを呼ぶ際のおどけた隠語であるらしいのです(前出、海事史の舞台)。
どくろに2本の骨を配した旗じるし(上)は、17世紀ごろから広く用いられた。
海賊旗は相手に恐怖を起こさせるような図柄が用いられた。(下)はその一例
日本の海賊
次は日本の海賊です。広辞苑によれば、海賊とは、(1)我が国近古における海軍の異称。(2)海上を横行し、往来の船を脅して財貨を強奪する盗賊、と説明され海賊衆は室町時代における水軍の将士としています。
歴史読本(海の戦国史)によれば、群雄割拠の戦国期、瀬戸内海の覇権を握り、毛利水軍の中心となって縦横無尽に大海を暴れ回ったのが、「三島村上水軍」と呼ばれる海賊衆“因島” “来島” “能島”衆たちであるとして、海賊=水軍であるといっております。
海賊と水軍の区別はつきにくいと認識しなければなりません。
「16世紀の日本。瀬戸内海や日本海、あるいは九州の東シナ海、さらに伊勢海から東国にいたる太平洋の海域でも、海の領主、廻船人たちによりそれぞれの海域に縄張りが形成されていた。たとえば瀬戸内海西部では、15世紀、安芸の蒲刈島が海賊の拠点になっており東からくる船は東の海賊を『上乗』として乗せていれば、西の海賊は一切干渉せず、西からくる船に西の海賊が乗っていれば、東の海賊はその船に干渉しないという慣習ができていた。海賊衆、警固衆などとも呼ばれた。琵琶湖については、廻船人でもあった堅田の侍がその全域を縄張りとして管理権を掌握しており、堅田の侍を『上乗』として乗せた廻船や商人は湖を通行することが許されたが、堅田に礼銭、関銭を払わない船に対して、堅田の侍たちは『海賊』となってこれを差し押さえ、ときには船の乗員を皆殺しにした(網野善彦、日本社会の歴史・下)」といいます。
倭冦は中国や朝鮮半島の沿岸部を侵略して盗みを働いたり家を焼き払い、人を殺したりするばかりでなく多くの住民を俘虜として日本に連れ去ったりしました。異国人の側で日本海賊のことを指して倭冦というのはご案内の通りです。かくして、海賊が歴史の問題であるなら、ロマンとノスタルジアですむのでしょうが、それが現実のものであるなら事態はゆゆしきことと言わねばなりません。