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1、姉妹船「オリンピック」と英巡の衝突事故(1911年9月)がなければ「タイタニック」就航が20日早くなり、氷山の南下も遅かったかもしれない。

2、「タイタニック」出帆時に「ニューヨーク」と接触しておれば「タイタニック」外板の損傷で航海が延期され、例の大氷山にも出会わなかったであろう。

3、見張り員が双眼鏡を持っておればもっと早く氷山発見が可能であっただろう。(注、当時船上の誰もが双眼鏡を所持していなかったというミステリーは未だに解けていない。)

4、無線室が船客からの電報を優先せず「カリフォルニアン」からの(近接氷山警告)をブリッジに都度報告しておれば船長以下もより緊張していたかもしれない。

5、「カリフォルニアン」の無船技師がもう30分長く起きておれば「タイタニック」の救難信号を受けたことは間違いない(当時の規則では無線室は24時間当直制でなかった)、また「カリフォルニアン」の当直士官が5分おきに打ち上げられる火箭弾に不審を抱いて船長を起こしておれば、なんらかの行動をとったかもしれない。

6、スミス船長が14日の航海速力ダウンを指示しておれば氷山回避出来たかも知れない。

7、マードックー航が氷山発見直後に後進をかけずに転舵しておれば舵効きが良くて衝突を回避出来たかも知れない。

8、見張り員の氷山発見がもう30秒早いか遅ければ事態は変わっただろう。早ければ転舵成功しただろう。遅ければ正面衝突して、船首が大破し20〜30人の犠牲者(船首船室の乗組員と3等船客)が出たかも知れないが、1〜2区画浸水で沈むことはなかっただろう。(注、1879年11月、客船「アリゾナ」がナンタケット沖で氷山と正面衝突したが隔壁のおかげで沈没を免れ自力でセント・ジョンズへたどり着いている。)


救助されたタイタニックの船員が描いた沈没の情景

 「タイタニック」海難当時までの20年間の北大西洋では3万2千回の横断航海があったが、そのうち海難による人命喪失は僅かに148人だったと伝えられている。5年前に世間をどう目させた3万トンの客船(「ルーシタニア」「モーレタニア」)を5割も上回る巨船が出現したから、当時の人々が本当に(不沈船〉と信じたことであろう。
 ただ船型の大型化のテンポが早いいっぽうで、航海技術は18世紀のクック船長時代からさほど進歩していなかったのが当時の事情である。が、このような巨船が氷山に衝突した前例がないだけに「そんなことは起こりえない」との暗黙の認識が関係者にもあったのかも知れない。またスミス船長が氷山警報の中でスピードを落とさなかったことは、いまでは考えられぬくらいの重大過失として責められるが、濃霧ならいざ知らず視界良好の海上で氷山の存在が疑われてもスピードを落とさないのが当時のシーマンの慣行であったとのこと。
 もっとも当時の大きな船会社は政府から郵便運送補助を受けており、スケジュール通りの運航が暗黙のうちに求められていたことも関係なしとしない。
 ベテラン船長の起用はどの船会社でも行われていることだが、上に立つ者の(運気)の強弱は大きな仕事では関わってくるように思っている。運気が強い(と山本権兵衛が考えた)東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命したことが日本海海戦に勝利を挙げた一因とされているが、「オリンピック」時代にも大事故を起こしているスミス船長を定年前の功労扱いで最新鋭船「タイタニック」の指揮を執らせたことが1905年に日本であった例の裏返しのような気がする。
 これは私の想像だが、第1船「オリンピック」が就航したときはWSLの社員、乗組員は「これは虎の子だから」という謙虚な気持ちで注意して扱っただろうが、1年後に「タイタニック」が完成する頃には巨船の扱いに慣れていただろうから、心の中に〈なれ〉があったのではなかろうか。会社や役所でも「初心忘るべからず」と言って新入社員を戒めるが、人間の悲しい性(さが)からして、なにごとによらずこれが非常に難しいということの一例を「タイタニック」事件にみる気がするのは筆者だけであろうか。

 

 

 

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