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 薄もやがあったとはいえ洋上での450メートルは指呼の間である。見張り員が果たしてその距離まで気づかなかったのか。また試運転での「タイタニック」の急停止距離は765メートルであったことは1等航海士も知っていただろうし、高速航行中でのクラッシュ・アスターン指示は適切だったのか。これらの疑問が残る。
 「タイタニック」が大氷山と擦過したときのショックは余りにも僅かだったので、見張り員自身も「うまくかわした」とホッとしていた。上部デッキの乗客もわずかかのショックしか気づかず、甲板に落下した氷片をもてあそぶ光景も見られるほどだった。この一瞬にブリッジ当直の士官が感じたショックは〈巨大な爪で船体を引っかくような音〉だったという。しかし第6ボイラー室の火夫たちは直ちに深刻な事態を悟っている。というのは右舷の裂け目から海水が奔流となって流入してきたからである。


船尾を上にして沈没寸前の「タイタニック」(絵)

 「タイタニック」は右舷船首側の連続4区画に裂け目が入り、衝突後10分しか経っていない午後11時50分にはキールから4.2メートルまで浸水してしまう。本船は15の水密隔壁で仕切られていたが、これらが中途(D、Eデッキ)までしか立ち上がっていなかったので、船首が沈下するにつれ4区画に浸入した海水が隣接の第1、第5区画に乗り越えて侵入、船の浮力を失わせたのである。
 スミス船長とともに被害箇所を点検したアンドリューズ技師は手元の紙で計算したのち「1時間半、せいぜいもって2時間」と、当時の状況下にあって驚くべき正確な予測を出した。
 15日午前O時15分「タイタニック」から最初の救助要請電波が四方に発信される。これはレース岬無線所と航行中の「ラ・プロヴァンス」、「マウント・テンプル」が最初に受信している。このとき「タイタニック」上のマルコーニ社派遣の無線技師が発信したのがく世界最初の発信と言われる〉SOS信号である。この直前には従来のやりかたで<MGYCQD>(注、信号の意味=MGYは「タイタニック」のコード、CQはすべての船へ、Dは損傷中)と打電されている。
午前O時25分、スミス船長は乗客の退船命令を出し、乗組員に救命ボート降下準備の指示をする。このときの言葉が後々まで伝えられて有名になった「Women and Children first」という言葉である。
 乗船定員よりも少ない救命ボートヘの移乗はこうして婦女子優先でなされる。夫婦、親子が引き裂かれる悲劇、婦女子であっても移乗できなかった下等船客、従容と船と運命を共にした1等船客の紳士やアメリカの老富豪夫妻、ボートに乗れなかった船客たちに今際のきわの祝福を与えた牧師、最後まで弦楽器を演奏して人々の心を慰めたのち船と運命を共にした音楽家たち―このような感動的な光景が現出された。このようなヒューマニズムが86年後でも人々を感動の渦に包み込む。
「タイタニック」からの救難無線を受けて、付近を航行中の船が一斉に救助に向かう。だがどの船も距離が遠くて沈没までには問に合わなかった。ただ1隻わずか37キロメートルの場所に「カリフォルニアン」が停船していたが、無線封鎖していたことと、「タイタニック」が5分おきに打ち上げる火箭信号を当直士官が問題視しなかったので、みすみす救助の機会を逃してしまった。その距離は12ノットで1時間半で現場に到着できるからほとんど全員が救助されたことは間違いない。(事件後の査問委員会証言では相互の距離が37キロメートルとされたが、もし「カリフォルニアン」当直士官が客船らしい灯火を認めていたのであれば海上の最大可視距離である約19キロメートル以内と想像される。)

 

 

 

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