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悲劇の幕あけ

 「タイタニック」が計画される9年前、アメリカの海洋作家モーガン・ロバートソンが『Futility』(「徒労」とでも訳すか)という小説を書いた。「タイタン」という客船が北大西洋で氷山と衝突する筋であるが、これに表れた船や状況設定が「タイタニック」海難と酷似していることが事件後に話題になっている。その共通点は次のようであった。
 「タイタニック」はWSL最長老の船長エドワード・スミス指揮のもとに4月10日正午サウサンプトン出帆、同日夕刻フランスのシェルブールに寄港、翌日アイルランド南岸のクィーンズタウン(今のコープ)沖に仮泊した後、北大西洋にでて針路を西南西にとる。「タイタニツク」がサウサンプトンを出港するとき、前途の不幸を暗示するような出来事が発生している。これは同港の特異な潮汐(地形の関係で1回の潮汐が2回にずれて起こる)が一因と思われているが、「タイタニック」離岸直後の潮流と本船のスクリュー回転が起こした複雑な潮流が近くに係留中の客船「ニューヨーク」(10、499総トン)の係船索を切断、これが危うく「タイタニック」と1.2メートルまで接近するという事故があった。幸いタグボートの機転で未然に防がれたが、当日のパイロットは「オリンピック」就航時にも同港で同様の出来事を起こしており、「オリンピック」が英国巡洋艦と衝突したときにもスミス船長とともに指揮をしていたという因縁がある。
 こうして北大西洋を進む「タイタニック」の1、2、3等客室ではそれなりのさんざめきが漂っていた。航海終了後に引退が決まっていたスミス船長はいつも1等食堂のセンター・テーブルで紳士淑女と会話を交わしていた。
 運命の14日にはフィラデルフィアの富豪の晩さんに招待されていた。キャビンでは造船所設計主任トマス・アンドリューズが図面と首っ引きで不具合な箇所の対応や、改良点の検討に忙殺されていた。

衝突・沈没

 1912年の冬は暖冬であった。このため平年よりも早くグリーンランド東岸の氷河が溶けてラブラドル海流(寒流)に乗って南下していた。いっぽうメキシコ湾流(暖流)は北米東岸に沿って北上するのだが、この流れの力が平年よりも弱く、ために北からの氷山や氷塊、氷片が例年よりも南に流れてきていた。だから北大西洋横断の船は氷山を警戒してやや南寄りのコースをとっていた。このような海象状態のもとで「タイタニック」は歓迎行事の待つニューヨークに向けてひたすら西進していた。
 北大西洋を往来する船のなかには氷に阻まれて停止したり氷片原を難航しており、4月12日ごろから「タイタニック」にも氷山警報がしきりに入り始める。14日(日)夕刻になると日中の晴天が放射現象を起こし気温ばかりでなく海水温度も下がってきた。
 この日の9時00分から北大西洋を往来中の各国の客船からしきりに氷山警報がよせられているうちに、夕刻には気温が15度低下し0.6度になる。17時50分スミス船長は自船のコースをやや南寄りに変針指示する。
 さらに19時30分「カリフォルニアン」から大氷山警告が来信する。20時55分スミス船長は夕食途中でブリッジへ昇ったのち、「変わったことがあれば起こすように」と21時20分に自室へ引き揚げる。その後、他船から7件の氷山警告がきたが「タイタニック」の無線士たちは船客の私信打電に忙殺されて見逃してしまう。
 このころ「タイタニック」は22.5ノットで航行、水温マイナス0.5度に低下していた。その後23時00分氷に囲まれ停船中「カリフォルニアン」が「タイタニック」に警告するが「邪魔するな、ほかと交信中だ」との返事。「カリフォルニアン」の無線士は23時30分スイッチを切り就寝してしまう。
 すると間もなく「タイタニック」の見張り員が前方の薄もやのなかに廃船のような黒い幻影を見つける。それは前方450メートルに海面に浮かぶ高さ17〜18メートルの薄黒い氷山と視認。すぐブリッジに通報、1等航海士はとっさに機関室に後進指示をすると同時に操舵手に取り舵一杯を指令。氷山は右舷すれすれに通過。「タイタニック」停船。位置はニューファウンドランド沖740キロメートル、41度46分N、50度14分Wであった。

 

 

 

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