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タイタニック1912・4・14/野間 恒

海事史研究家 野間 恒   


サウサンプトンの岸壁を離れる「タイタニック」
=画・野上隼夫


野間 恒氏

まえがき

 1912年(明治45年)4月14日深夜、その名前どおりの巨船「タイタニック」が北大西洋上で遭難したニュースはたちまち世界中を駆け巡った。豪華さと安全性には他の追従を許さぬものと誰もが認めていたその船が貴顕紳士淑女を乗せた処女航海で沈没、平時では世界最大数の犠牲者を出したという、これ以上の劇的効果は考えられぬほどの大事件であった。
 こののち、原因究明の査問委員会がアメリカとイギリスで長々と続く。憶測を交えて華々しく報道される事態の成り行きは世界中の耳目を引き付けて離さなかった。
 ところが欧州全土を戦火に巻きこんだ第1次大戦がぼっ発する。4年後に大戦が終わり、過剰信用、消費景気が11年続いたのちの世界不況、さらには第2次世界大戦と、世界中が揺れに揺れるうちに「タイタニック」事件は人々の記憶から薄れてしまった。
 1985年、深海探査技術を利用して米仏の探査チームが北大西洋ニューファウンドランド沖で「タイタニック」の船体を発見、船体や遺留品の一部が引き揚げられた。
 この大事件を絶好のテーマとして映画が次々に作られたが、1997年にキャメロン監督の大作「タイタニック」が封切られるや、この大事件は86年間の眠りから覚めて人々の心をとらえつつある。この海事史上の大事件を私なりの見方で語ってみたい。本題に入る前に当時の北大西洋の航路事情を少し述べておこう。
 当時の北大西洋で覇を競っていたのはキュナードニフイン(英)とハンブルク・アメリカ・ライン(独)などである。前者はアイルランドからの移民、後者は東欧、中東からの移民を基底客に確保して威力を誇っていた。これにC・G・T(仏)やホワイト・スター・ライン(英)が続いていた。ホワイト・スターニフインの正式名称はオセアニック・スティーム・ナビゲーション社(Oceanic Steam Navigation Co.)であり、ホワイト・スター・ライン(以下WSLと略)とは日本航空をJALと呼ぶような通称である。(注、ホワイト・スター社とは呼ばない。)
 1902年になると北大西洋の勢力地図が大きくかわる。アメリカの金融、鉄道、鉄鋼業を支配していた大富豪J・P・モーガンが北大西洋に就航する船会社をすべて支配下において安定的な輸送秩序を実現しようと、IMM社を設立して各国船社の株式買収に乗り出す。この結果、英系の会社ではWSLを含めた5社が支配下に入る。キュナード社は政府からの補助約束と引換えに独立性を保っていた。  アメリカの船会社ホワイト・スター・ライン。IMM社傘下に入ったWSLはモーガン財閥の海運部門の最良騎手の地位を与えられる。同財閥の巨大な信用力によって船隊整備に資金が惜しみなく注ぎこまれた。
 1907年夏(当時「ルーシタニア」がく北大西洋の北大西洋横断記録保持船〉として華々しく登場しており、「モーレタニア」は建造中)の某日、ロンドンにあるビリー卿(「タイタニック」を建造するハーランド&ウルフ造船所の会長)の大邸宅をJ・B・イズメイWSL会長が訪ねた。この晩さん会の席で「ルーシタニア一級をはるかに超える船の建造計画が話にのぼり、巨船3隻の建造が合意された。
 建造の主眼は大型化と豪華な設備によって旅行客を引き付けようというものだった。「たかだか1〜2日早く目的地に着くために、大出力から生じる船体の振動を我慢する価値があろうか」との疑問から、WSLはキュナード流の高速船指向に背を向けたのである。
 当時の画期的な巨船「ルーシタニア」が長さ240メートル、幅27メートル弱であったが、これを長さで30メートル近くも凌駕する超大型船を建造する船台は世界の何処にもなかった。建造を請け負うたハーランド&ウルフ造船所が行った対応は極めて大胆で先見の明があるものだった。在来の船台3基をつぶし、これを延長して2隻の巨船をタンデム建造できるように改造した。艤装用に150?のフローティング・クレーンも購入した。WSLとハーランド&ウルフとの関係は、明治期の日本郵船と三菱長崎造船所の関係に似たところがあり、1871年WSL創業時の汽船「オセアニック」を手がけてからWSL社船の建造を一手に引き受けてきた。両社はいわば唇歯の関係にあったから、このような決断を行ったのであろう。

 

 

 

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