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 次に船体が大きくぐらりと傾いたかと思うと海の中に向けて突入していきました。私は船もろとも海の中に引き込まれていくのが分かりました。意識がもうろうとし、海の中でいろいろなものが体にぶつかるのを感じました。
 もうすぐ死ぬという予感が脳裏をかすめ、数年前に死んだ姉の顔が現れ、その後は覚えていません。失神したのでしょう。気がついたのは海に浮いている自分でした。
 確かに生きていました。私は生き返ったのだと思いました。救命胴衣を着ていたので浮き上がったのです。私はしばらくもうろうとした状態で大きなうねりに揺られていましたが突然「これにっかまるんだ」という大きな声がして竹竿と男の顔が目の前にうつりました。私は必死で竿をつかみ、いかだに引き寄せられ、救命胴衣をつかまれて引き上げられました。いかだには4〜5人が乗っており回りにはいかだやあちこちにかたまって浮かんでいる人たちがいました。
 そうこうしているうちに助けを求める声、親が子を、子は親を呼ぶ声でざわめいていた海面も静かになり、浮かんでいた人たちも荷物も波に流されたのかそれとも沈んでしまったのかチリヂリバラバラになってしまいました。
 長い長い恐怖の一夜が過ぎて人の顔が見えるようになってきたとき、かなり近くに島(悪石島)が見えました。繰り返し襲ってくる山のような波のうねり、底知れぬ黒い海底「ああ地面に立ちたい」「木の立っている固い地面に立ちたい」「家に帰りたい」と思っているといつの間にか自分が海岸にいるような錯覚を起こしてははっとするのでした。
 同じいかだに乗っていた3、4歳ぐらいの坊やを抱いているお母さんは、口から泡を吹いており、もう駄目だということで、子供は船員に抱き取られてその母はいかだを下ろされ、流されてしまいました。そのお母さんはぶくぶくと音をたてて沈んでしまいました。
 誰一人として声を出す人もなくみんな襲い来るうねりにいかだから振り落とされまいと必死にしがみついているだけで他人のことなど考えるゆとりもなかったのです。
 昼過ぎごろ、かすかな爆音とともに上空遠くに飛行機が見えました。「とにかく手を振るんだ」という大人の人たちにつられて手を振ったのですが、飛行機は爆音を残して消えてしまいました。
 再度そのようなことがあったあと、突然大きな爆音がしたかと思うと飛行機がものすごい低空で私たちの頭上を旋回してビラを落として行きました。
 それから数時間後の夕方、ポンポンという音とともに小さい漁船が現れ、ロープを投げていかだに横付けした後、漁師さんがいかだにしがみついたまま動けないでいる私たち一人ひとりを漁船に救い上げてくれました。そのときはじめて救命胴衣を外され、だぶだぶの船員さんの服を着せられ、温かいおもゆをいただきました。大人の中には気を許してうとうとと寝入ろうとして棒でたたかれている人もいました。
 晩御飯には魚の煮つけをいただき、漁船で一夜を明かし翌日遅く山川港に入港しました。それから生き残りの私たちは鹿児島の旅館にお世話になった訳です。

 当時、対馬丸には学童、一般合わせて1,661人が乗船しており、そのうち学童800余人中生き残った者59人、一般疎開者の生存者は168人しかいなかったということです。
 対馬丸は、平成9年12月12日に、海洋科学技術センターの深海探査機「ドォルフィン‐3K」により悪石島の北西約10キロメートル沖、北緯29度31.93分、東経129度32.90分の水深871メートルの海底で発見されました。
 この遭難では前述のように多くの人が亡くなりました。泳ぎの達者な人も多く死んだと聞いています。そんな中で泳ぎのできない私が助かったのは救命胴衣をちゃんと着けていたからだと思います。
 今も救命胴衣不着用で多くの人命が失われているとのことですが、自分の力を過信するこなく、救命胴衣はいつも着用していてほしいと思います。


集合場所だった前島のウガングワー

 

 

 

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