救命胴衣で救われた私

那覇市 天久 敏子
私は昭和8年12月30日生まれの64歳ですが、私にはもう1つの誕生日があります。それは昭和19年8月22日です。その日、私は1度死に、救命胴衣で再び生を受けたのです。
あれは第2次世界大戦中のことでした。戦争も始めのうちは時々ラジオで戦況を聞く程度でしたが、昭和19年の春ごろから周囲が騒がしくなってきて沖縄にも内地の兵隊さんが大勢見られるようになりました。
後で聞くところによれば敵の沖縄上陸は必至ということで沖縄防備隊第32軍が創設されたとのこと、これに伴い食料確保の見地から戦力にならない老幼婦女子および学童を本土へ疎開させることとなりました。
特に学童疎開に対しては、資質優秀な児童を安全地帯に移して、たとえ沖縄全県民が玉砕することになっても、子孫を後世に残すことができる。したがって、優秀な教師と学童をいま疎開させることは、将来に対処する重大な意義を有するから他の一般婦女子よりも優先すべきであるとの理念により、とくに勧奨には熱意をもってあたったとのことでした。
当時11歳、那覇市の泊国民学校(小学校)の5年生だった私は先生の勧めもあり、また大和(内地)へ行けば富士山が見られる、雪が見られるという単純な思いもあり、修学旅行にでも行くような気持ちで勝手に胸をふくらませ、子供を疎開させていいものかどうか判断に迷っていた母に、泣いてだだをこね学童疎開の了解を取り付けました。
「虫の知らせ」というのか出発前の8月20日の夜になって急に高熱を出してうんうんうなされて夜を明かしました。この分なら明日の乗船は駄目かも知れない。もちろん母ちゃんだって許してくれないだろうとあきらめていたのですが、朝になるとうそみたいに熱はとれていました。
普段は見向きもしない庭の木々に無言の別れを告げて出発準備にとりかかりましたが、このとき、指定携帯物品のうち大事な水、水筒を忘れてしまいました。服装は白の半袖ブラウスと黒のモンペとげたでした。
学校から指定された集合場所は、前島のウガングワー(拝所)で現在の前島小学校付近でした。
私が着いたときにはすでに引率の先生2人と学童30人ぐらいが集まっており、1歳上の男子生徒が疎開学童を代表して「元気に行ってきます」と挨拶していました。
真夏の那覇商港は当時舗装してなく、夕方近くとはいえ直射日光が強く、砂ぼこりと何千人という見送りの父兄たちで殺気だっていました。父兄たちは手に手に水筒や弁当などを持ってわが子を探して右往左往していました。私も忘れてきた水筒を持ってきてくれているであろう母を一生懸命探したのですが、見つけることができず泣いてしまいました。
そのうち商港の三重城よりの岸壁からポンポン船に乗せられ波の上沖に停泊している学童疎開船向け出発しました。岸の方では石垣のような見送り人が盛んに手を振っています。別れを知り子供たちはワンワン泣きはじめました。中にはてれ隠しに笑う子もいました。
その学童疎開船の名は対馬丸といいました。いよいよ対馬丸に近づくと見上げるような黒い巨体に息が詰まるような圧迫感を覚えました。対馬丸は大きな貨物船(6,754総トン、長さ135.64メートル)で大きな倉庫が船首の方に2つ、船尾の方に3つ、小さいのが中央に2つ、合わせて7つあったそうです。