絵で見る日本船史 (247)
国洋丸(こくようまる)

昭和11年6月、海軍の要請に応え大型油槽船日本丸を建造し、初めて油槽船運航に参加した山下汽船では、日本政府が昭和7年から施行してきた船舶改善助成施設を、昭和11年6月実施の第3次助成を最後に、翌12年4月1日以降は優秀船助成法と改訂の上、即日実施したのを機会に再び大型高速油槽船の建造を計画した。
早速同12年4月23日山下系列会社福洋汽船等と、合弁資本により資本金500万円の国洋汽船を設立し、先年建造した日本丸と同型の大型油槽船2隻同時に神戸川崎造船所に発注した。
第1船は昭和13年6月17日起工、12月26日に進水して国洋丸と命名され、翌14年5月16日に竣工、第2船は同年10月28日完成の健洋丸である。
この姉妹船は神戸川崎造船所が海軍艦政本部の指導で設計建造し業界では川崎型と呼ばれた油槽船で、同型13隻中の10番、11番船に当たり油槽船では、当時世界最高水準の船といわれていた。
国洋丸の要目寸法や装備一切は山下汽船の日本丸と全く同一で、総屯数10,026、主機は川崎製マン型ディーゼル1基11,033馬力で19.6節、完成後の第1次航は北米加州から海軍用の重油輸送に当たり、その後は南方ボルネオや北樺太オハにも就航、昭和15年11月16日海軍徴傭船になり、特設油槽船として軍用重油の輸送に従事していた。
翌16年3月以降対米外交関係の悪化に伴い、専らトラック島やパラオ基地への燃料油輸送に当っていたが、同年9月呉海軍工廠で艦隊補給用の洋上給油装備の特設艤装工事を施工、秘かに豊後水道宿毛湾と九州有明海で、他の海軍徴傭油槽船と共に艦隊補給の洋上給油訓練を実施したのである。
同年11月5日、川崎型油槽船7隻が同時に海軍連合艦隊に配属となり、国洋丸は極東丸、健洋丸、神国丸と4隻で、第1補給部隊を編成、機動部隊の第2航空戦隊に随伴して千島列島択捉島単冠湾に集結、太平洋戦争緒戦時の真珠湾攻撃に参加して活躍したが、海軍の目覚ましい大戦果の蔭で余り世に知られていないのが残念である。
翌17年2月末、機動部隊と共にセレベス島南部のケンダリー、スターリング湾に出動し、ポートモレスビー攻撃作戦の補給支援に参加し、続いて4月4日澎湖列島馬公を出撃、星港で東栄丸と合流して第2次印度洋作戦を支援し、翌18年には南方各地や南洋方面の基地補給に従事したのである。
翌19年1月8日にボルネオのバリクパパンからトラック基地に向け油槽戦3隻だけの船団が出帆1番船国洋丸、2番船健洋丸、3番船日本丸の、山下系列の所属船ばかりで、戦局不利な当時の状況の下、虎の子の優秀姉妹油槽船3隻が、それぞれ重油と航空燃料を満載し、最新鋭駆逐艦2隻・早波と島風に護衛され、トラック基地へ強行決死輸送を敢行した。
出港6日後の1月14日昼過ぎパラオとトラック島のほぼ中間の太平洋上で、3番船日本丸が米潜スカンプの魚雷6本を受けて引火爆発となり、乗組員犠牲者16名道連れに僅か2分間で沈没した。
さらに同日夕方5時半、今度は姉妹船健洋丸がガードフィシュ号の魚雷2本を後部に受け、犠牲者3名と共に船尾から沈没した。
この輸送作戦で辛うじて国洋丸1隻だけが1月16日、トラックに到着し無事任務を完了した。
その後国洋丸はバリクパパンから比島ダバオヘの航空燃料輸送に活躍していたが、その半年後の同19年7月30日スルー海南部のボルネオ島サンダカン東方110浬の地点で、米潜ボーンフィシュ号の雷撃を受け沈没、乗組員犠牲者9名が弱冠5才の国洋丸の運命と共に南溟深く消え去った。
松井 邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)