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どちらかといえば保安的なスタイルで書かれたこの作品は、創作する人間として恥ずかしくない態度を貫いた結果であり、この音楽を喜びとして聞いて下さる方がいてほしい、そして、音楽の創造が人間の営みとしてある限り、音楽的普遍性というものが、感性と切り離されて存在するものであってほしくないと願いつつ作曲いたしました。」

田頭氏の作品については、不思議なことに終始比較的高得点(といっても過半数といったかたちであるが)を各時点で保持していたにもかかわらず、とりわけメモすべき発言が委員諸氏からは発せられなかった。それが氏の文章に述べられている音楽の、というよりもクラシック音楽的な表現手段、表現手法の熟成への志向が説得力(クラシック音楽的な意味での)を獲ち得て、楽譜を通しての委員の判断や評価にネガティブな反応といったものをかきたてることがなかった故であろうか。それとも、氏の意図するような効果が強烈なかたちでは説得力を持ちえなかったことと、「私の音楽の匂い」が感じられなかったためであろうか。いずれにしても、コンサートでの生きた、なまの響きでの能動的、積極的な聴き手への働きかけが実現されるよう、心から祈りたい。

 

佐藤 昌弘(さとう まさひろ)氏も、田頭氏と同年の昭和37年11月生れの35歳、同じく東京芸術大学大学院を修了し、修士号を得ている。また同じく田頭氏につづいて、第12回の日本交響楽振興財団作曲賞に入選しているほか、第61回日本音楽コンクール作曲部門(オーケストラ作品)第3位に入賞という賞歴がある。松村禎三、佐藤眞の両氏に師事している。

入選作の「トランスフィギュレイション―ピアノとオーケストラのためのTransfiguration for Piano and Orchestra」は、約12分の作品。まず、<作曲の意図>を紹介しよう。

「曲は、3管編成のオーケストラと独奏ピアノによる単一楽章の協奏的管弦楽作品である。全曲を通じてピアノとオーケストラは終始対等に扱われ、対立と融和を繰り返しながら、相互に反響し、共鳴し合い、構造的にも音色的にも揮然とした音響体を形成していく。

作品の音組織は、12半音を数オクターヴにわたり様々な配置で同時に積み重ねて得られた和音が中心素材となっており、その複合的和音の変容(トランスフィギュレイション)がソノリティの色彩を多層に織り成していく。」

氏の作品もまた田頭氏と同じく、少なくとも浄書譜の文字通りの<エクリチュール>については、およそ非個性的な現象形態を示している。五線紙へのおのれの創作活動、おのれの音楽世界の記号的表現は、すくなくとも個性的であってほしいと思うのは、18世紀という現代にとってはおよそはやくも考古学的ともいうべき時代のスペシャリストとしての筆者の、およそアナクロエスティックな嘆きなのであろうか。

これは佐藤氏ばかりの問題ではなく、他の多くの応募者の問題でもある。しかも、手書きの、場合によっては乱雑な書法によるユニークな楽譜が、内容的にはきわめて幼稚な、稚拙なものであるという問題がある。加えてコンピューターとそのソフトを駆使しての五線譜作りが、そのハイテク的な美麗さの、きわめて人工的な表象に、私たちを惑わし、間違内容についての過った判断さえ導きかねないという時世でさえある。

佐藤氏の作品の評価は、常に最高点を保持しつつ、三段階のチェックをクリアしたものであったし、その点では田頭氏の場合と同様で、とくに注目すべき発言はなかったのは、委員の間に、同様の暗黙の了解が通座していたためであったろうか。唯一の例外は、佐藤氏が<作曲の意図>で言及している「対立と融和」の繰り返しのやり方、いわば<手>に限界があり、「重層構造に変化なし」との指摘が書面による採点者から発せられていることであった。だが、この点についての論議は残念ながら指摘者の不在によって展開されることはなかった。

筆者の立場からは、作曲の音楽理論的、作曲学的意図でなく、表現的、すなわち人間的(それがどんなものであれ問題はない)意図のごく簡単な、単純でもかまわぬ言表が欠如していることが残念である。しかし、それが、コンサートでまさに音によって発せられることを期待している。

 

 

 

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