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ジャズドラマー

ジョージ川口

 

ジョージ川口(本名:川口譲治)昭和2年6月15日、京都府で5人兄弟の次男として生れる。父、川口養之助は日本ジャズ界の草分け的存在。

昭和8年、満州に渡る。大連でアメリカ映画「ハリウッド・ホテル」を観て、ジン・クルーバーのドラム・ソロに感激、その日からドラムのとりこになる。昭和15年、大連実業学校に進学。昭和17年、満州飛行学校に転校、パイロットの資格を修得する。昭和20年2月、飛行機事故に遭遇するが奇跡的に九死に一生を得る。終戦後しばらくの間、大連市内の父親のバンドに席を置き、ダンス・ホール、ソ連司令部などで演奏する。

昭和22年3月、内地に引き揚げてくるやいなや、3日後から横浜の米軍クラブに出演。その年の4月、三木トリロー・バンドヘ加入。昭和24年ゲイ・セプテットに参加。昭和28年当時のトップ・スター、4人が集まり、ビッグ・フォアを結成。昭和28年12月より文化放送「トリス・ジャズ・ゲーム」を始め、7年半続き、CM界のはしりとなる。

第1回目のリサイタルは、昭和30年、浅草国際劇場にて開く、その後、昭和33年、ビデオホール、40年、49年はサンケイホールにて、51年は郵便貯金ホールで、いずれも満員盛況となり、時の評判をとる。昭和55年、プロ生活35周年を記念する6回目のリサイタルを中野サンプラザで開く。その年、日本ジャズ界で最もめざましい功績を残したジャズマンに贈られる「南里文雄賞」を受賞。さらに昭和56年、ジャズ界では初の「芸術選奨・文部大臣賞」を受賞。春には、アート・ブレイキーとのドラム合戦をニューヨークでレコーディング、昭和57年春、ライオネル・ハンプトンとのセッションをこれもニューヨークでレコーディング。7月4日には、世界最大のジャズ祭「ニューポート・クール・ジャズ・フェスティバル」の最終日、カーネギー・ホールにて、ライオネル・ハンプトン等、世界のトップミュージシャン、オール・スターの中へ、日本人ただひとり、初参加し共演。又、ニューオリンズ市より、日本にジャズを広めた第一人者として名誉市民の称号を贈られる。昭和60年6月10日、日本武道館を皮切りに全国4ヶ所で「日米ジャズ・バトル、ジョージ川口40周年記念リサイタル」をアメリカより、アート・ブレイキー、エルビン・ジョーンズ等を招き、又、日本の全スター・プレイヤーも参加、これ以上のメンバーでは2度と出来ないと云われる程、盛大にとりおこなわれ大好評を博した。NHKテレビでも「ゴールデン・ジャズ」で2度にわたり放映された。同年10月13日、日本作曲大賞運営委員会より「日本作曲大賞音楽文化賞」を受賞。昭和62年3月2日には、世界でも初のオール・ジャパン・ジャズ・エイドを日本全国のジャズマン175名に無料出演を頼み、日本武道館を満席にして演じられた。それは「24時間テレビ・愛は地球を救う」の一環として1250万円を8月に寄付として渡し、大いに貢献したとして24時間テレビ・チャリティー委員会より感謝状を受ける。

昭和63年春には日本ジャズ界から初めて『紫綬褒章』を受章。同年9月には、日墨友好100周年記念として、メキシコ演奏公演を行なう。又、全日本太鼓連盟にも所属し、日本伝統芸術和太鼓の文化にも深く貢献し、海外公演も多い。

平成2年11月には、音楽生活45周年を記念して、全米オールスター・ミュージシャンを招き、「日米ジャズ・バトル」として、東京を始め全国4ヶ所で盛大に行われた。その模様は、NHK衛星放送で2時間にわたり、又総合放送でも放映された。

平成5年8月日本経済新聞に、「私の履歴書」が1ヶ月にわたり連載された。その内容は、まさにジョージ川口プロフィールその物であり、又、日経という紙面上、音楽家の掲載は、まれにみる話題性を経済界に浸透させた。平成7年10月50周年リサイタルをNHKホールにて盛大のうちに終了した。

又、平成8年5月には、中華人民共和国・大連公演。平成9年9月、北京・上海・瀋反陽にて日中友好のコンサートを行った。

同年11月には、『勲四等旭日小綬賞を、叙勲。半世紀の間、ジャズ生活の歴史は、自己の努力とジャズ界新人育成に心がけ、現在名だたるジャズメンは、ほとんどが、ジョージ川口の元から巣立っている。

今後は、ジャズ音楽を通じて世界各国と交流を深め、世界平和に少しでも貢献できるよう積極的に推進していくべく心をあらたにしている。なお、現在、財団法人日本太鼓連盟の評議員としても活躍している。

 

 

 

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