「東京オリンピック」の開催を間近に控えた六四年六月一六日、「新潟地震」(死者二六人)が起きた。テレビ時代に入って初めて経験する都市型の地震で、新潟では完成間もない昭和大橋が落ち、数日間にわたって炎上を続ける石油タンク群の映像が今も脳裏に残る地震災害であった。「液状化現象」という地震の専門用語が初めてマスコミに登場した地震でもあった。この頃からテレビとラジオの分担をはっきりさせ、災害時のラジオの機能が改めて見直されるようになった。いわゆる「安否情報」が初めて放送されたのも「新潟地震」であった。「宮城県沖地震」もまた都市型の地震であった。電気、ガス、水道といったライフラインの被害が相次いだため、「安否情報」に加えて、ライフラインの被災状況や復旧の見込みなどを伝える「生活情報」もかなりきめ細かく放送された。
「阪神・淡路大震災」は、ラジオからテレビヘ移行する放送七〇年にわたる歴史の中で、初めて遭遇した大災害であり、マルチメディア時代の幕開けに起きた大災害でもあった。そうした状況下にあって、NHKの災害報道には様々な評価はあろうが、「被害情報」だけでなく、「安否情報」や「生活情報」などがこれまでになくバランスよく伝えることができたのではないだろうか。
「問われる情報の収集と伝達」
「関東大震災」当時と比べれば、日本は今、高度情報化社会の真っ只中にあり、ラジオ、テレビはもとより、多数かつ様々な情報通信網が普及、整備されている。まさに情報過多と言われる時代だが、それでも、災害時に情報が遅れたり、誤って伝えられたりしたために、重大な被害を招いた例は、依然として跡を絶たない。
「関東大震災」に原型を見る「災害と情報」というテーマは、まさに今日的テーマである。住民に対する情報の伝達に当たっては、(一)情報の内容が適切なものであること、(二)住民に誤解されないような内容であること、(三)確実に伝達されること、(四)情報の受け手が的確な行動を取ること、という一連のプロセスが、全てうまく行くことが肝要で、それが実現した時に初めて「効果的な情報伝達が行なわれた」と言えよう。
まず、情報の「適切さ」について、我々マスコミ側の反省を込めて言えば、これ迄に起きた大地震などの後に放送などを通じて住民にもたらされる情報は、各地の震度や被害状況などが中心で、ともすれば「被害情報」に偏り過ぎて来た傾向が強い。しかも、ひどい災害現場ばかりを取材対象にするため、あたかもその地域全体が壊滅といった印象、あるいは誤解を人々に与えて来た。「被害情報」がいち早く伝えられることによって、国の内外から早期に救援の手が差し伸べられるといった利点はあるが、その一方で、いわゆる「局部拡大症候群」に陥って、全体の災害像を歪めてしまう恐れもある。現地で実際に災害にあった人達にとって、こうした情報は果たして適切なものと言えるだろうか。確かに、地震発生直後は各地の震度や被害状況は知りたい情報には違いないが、災害に遭遇した人達が災害発生後どういう行動をとるべきか、どう生活していったらいいのか、その指針となるような情報こそが必要なのである。災害発生後に人々が本当に必要とする情報は、「今どの病院が開いているのか、電気やガス、水道は何時使えるようになるのか、どの道路が通行できるのか、鉄道はどの路線が動いているのか」など、被災後に人々が生存して行くのに必要な情報、すなわち「安心情報」である。今後は、我々マスコミだけでなく、様々な防災機関が行う被災者への情報提供は被害状況に必ず「安心情報」を加える配慮が必要であろう。
次に、情報の「正確さ」についてだが、七八年一月一四日、「伊豆大島近海地震」の発生直後に静岡県内で起きた余震情報をめぐる一連の騒ぎ、八四年九月一四日の「長野県西部地震」の後、被災地の王滝村で起きた避難準備指示をめぐる情報パニック、さらには、八九年七月一三日の「伊東沖海底噴火」の際、静岡県伊東市内で起きた津波情報騒ぎなどのように、行政サイドが住民に警戒を呼びかけた情報がかえって流言や避難騒動を招いてしまうことがある。住民への情報文の中で、マグニチュードという言葉や避難準備指示など、普段住民に馴染みが薄く、十分に理解されていないような専門的な言葉が使われたり、あるいは曖昧な表現が使われたりすると、情報