一方、交通、通信機関が壊滅した中で、二人の機転がこの大災害を世界に速報することになった。その日、神奈川県警察部長の森岡二朗氏は、横浜市内の神奈川県庁に勤務していたが、県庁にも火災が迫ってきたため、多数の避難民を率い東京湾へ泳いで逃げ、貨物船に救助された。森岡氏は、船舶無線を使って横浜市全滅の一報を大阪府知事に宛てて打電する。この無電をたまたま磐城無線局の電信技師・米村嘉一郎氏が傍受、世界に伝えるべき大災害と判断した米村氏は、アメリカ西海岸のRCA(Radio Corporation of America)ロサンゼルス支局に宛て、「本日正午、横浜に大地震、ついで大火あり。死傷者おびただし。交通機関全滅」という電文を打った。この一報は、RCAからAP通信に伝えられ、地震発生から一二時間後には、全米の報道機関をはじめ、世界各国に伝えられることになった。当時、日本は世界の中で、孤立化へ道を歩みはじめていたが、この一報を聞いた世界各国は、政治的対立や人種的な偏見を超えて、日本への積極的な救援に乗り出したのである。アメリカ国内では、大統領の呼びかけで大々的な募金活動が開始され、当時、アジアの海域に展開中のアメリカ、イギリスなどの艦隊が東京湾に向け急行、焼け跡の片付けや被災者用のテント村の作成など、救援活動に従事している。今、「情報が生死を分ける時代」とさえいわれているが、まさにその原型を七五年前の「関東大震災」に見ることができる。
「NHKと災害史」
NHKのラジオ本放送の開始は二五年七月一二日のことである。「関東大震災」における情報の混乱がラジオ放送の開始を予定よりも早めたと言われている。しかし、ラジオ放送が始まってもしばらくの間は速報の分野でも新聞にひどく立ち遅れていた。NHKの災害放送の歴史をふりかえってみると、三三年三月三日に起きた「昭和三陸地震津波」は、明治時代に起きた「明治三陸地震津波」(一八九六年六月一五日)と同じ様に震害(地震による直接的被害)が少なかった一方で、岩手県の綾里湾に波高二八・七mに達する大津波が襲うなど三陸沿岸の各地に大津波が押し寄せ、死者、行方不明者は三、〇六四人に上った。しかし、NHKは定時と臨時の六回のニュースの中で被災状況を速報したにすぎない。その翌年の三四年、ラジオ放送が本格化して初めてという大災害が起こった。九月二〇日から二一日にかけて日本を襲った「室戸台風」である。大阪を中心に死者、行方不明者は三、〇三六人に上った。ところが、大型台風によって通信は途絶し、停電によって放送による情報伝達が不能に陥ってしまった。NHKが全国の放送局に非常用発電装置を設置するきっかけともなった台風でもあった。
その後、四三年九月一〇日に「鳥取地震」(死者一、二二三人)、四五年一月一三日には「三河地震」(死者二、三〇六人)、さらに、四六年一二月二一日には「南海地震」(死者一、三三〇人)というように、毎年死者が一、〇〇〇人を超えるような震災に見舞われているが、戦時中の情報統制や終戦直後の混乱期にあって、これに放送が関与したという形跡は殆どない。ラジオ放送も復興する過程で起きたのが「福井地震」(死者三、七六九人)である。放送機器が地震で壊れて停波したが、連絡線によって金沢を経由して第一報を伝え、地震発生から一時間一一分後に金沢局、名古屋局から放送を開始し、電話線を使って福井局から全国向けの放送も実施している。
五三年二月一日、テレビ放送が始まった。しかし、放送開始当初は情報量だけでなく、速報の分野でも当時の新聞に遅れをとっていた。その六年後に「伊勢湾台風」(死者五、〇九八人)が中部地方を襲った。大型の台風が毎年のように日本を襲い、水害によって年間一、〇〇〇人を超える犠牲者を出す時代であったが、「伊勢湾台風」でも行政や住民の油断から情報伝達が徹底せず、大災害へと発展してしまった。当時はまだラジオの全盛時代で、従来から被害状況だけを伝える「被害報道」一辺倒だった災害報道を反省し、住民に対して台風への備えなどを呼びかける「防災報道」の必要性が指摘された災害でもあった。