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次に、死者の「名簿放送」は、最終的には五、五〇〇人を超えるものとなり、この放送もこれまでに例を見ないものとなった。現行のテレビの名簿放送システムでこれ迄最も多かった死者数は、群馬県上野村の山中に墜落した日航機事故(八五年八月一二日)の際の五二〇人であったが、今回はその一〇倍以上の死者を伝えることとなった。名簿はテレビの一画面に七人を伝えるのを原則として、氏名、年令、住所を伝えたが、氏名の正確な読み方が分からない例も多い。一画面で七人を伝える場合、最低でも二〇秒ほどかかり、五〇〇人分を伝えようとすれば三〇分はかかってしまう。仮に死者数が万単位になった場合にはどうするのか、テレビやラジオの「名簿放送」自体のあり方も含めて検討しておく必要があろう。

 

「安否情報をどう扱うか」

「安否情報」は、地震発生当日の一七日午前一〇時三〇分からFMラジオ(全国向け)で放送を開始し、教育テレビでも一七日午後一時より近畿ブロックで放送を開始、一月三〇日まで放送を継続した。こうした「安否情報」は従来はローカル放送で扱ってきたが、今回は災害規模も大きく、関係者が全国に広がっていたためである。NHKの災害報道の中で「安否情報」が登場したのは「伊勢湾台風」(五九年)の時で、その後「新潟地震」(六四年)の頃から本格的に放送に取り組むようになった。しかし、従来は「私は無事でいるから安心して欲しい」といういわゆる「無事情報」が圧倒的に多かったのに対して、今回は災害規模が大きく、被災地との連絡手段が殆ど途絶えてしまったために、被災地の外から被災地にいる人の安否を確かめるいわゆる「安否気遣い情報」、具体的には「○○へ連絡して欲しい」というものが大半を占めることとなった。情報の受け付け件数は「新潟地震」の際には一週間で約三、〇〇〇件だったのに対し、今回は五万四、六〇〇件に上った。しかし、放送できたのは三万一、八〇〇件余りにとどまった。「安否情報」を伝えるにしても、一件について約二〇秒、二四時間放送し続けても四、三二〇件しか放送できない。今回は地震の発生が早朝だったのに、多い時は一日に二万四、〇〇〇件を超える情報依頼が殺到した。NHKでは、東京に二〇台の臨時電話と八〇人の要員を配置し、二四時間体制で電話の受け付けに当たった。もしも地震の発生が日中であったら家族はバラバラになり、恐らく数一〇万件に上る「安否情報」が殺到したに違いない。例えば、首都圏で日中に直下型地震が起きたとすると、勤務先と自宅の間が二〇キロ以上離れていて、帰宅するのが難しいいわゆる「帰宅難民」は、平日で三〇〇万人を超えるとされているが、こうした「帰宅難民」を対象にした「安否情報」を放送することは到底不可能と考えておかなければならない。生活、名簿、安否の三つの情報に共通して言えることだが、情報は時間がたつにつれて古くなるものであり、単に一回放送しただけで十分という訳には行くまい。視聴者からの問い合わせにもスムーズに応答できるシステムも今後不可欠となるのではないだろうか。「安否情報」を受け付けることによって、当然のことながら電話の輻湊という問題を抱えている。放送時間にはあくまでも限界があるし、個々の被災者にとって、メディアを選択する余地がそれ程ないのも事実である。今回の震災を契機に、NHKと民放各局が放送の役割分担を含めて検討しているが、各局が「災害報道には特ダネはいらない」ぐらいの心構えで協議を進めて欲しい気がする。

 

「災害と情報のあり方」

災害時に正確な情報が伝わらなかったり、情報に混乱が生じたりしたために、かえって被害が増幅されたり、不測の二次災害が起きたりした例は、これ迄に枚挙にいとまのない程である。「関東大震災」の際、朝鮮人や社会主義者を中傷する根も葉もない流言が、多数の人命を奪ったことは、今なお多くの人達の記憶に残る歴史的事実である。当時はラジオもテレビもない時代で、唯一の報道機関であった新聞社も地震によって大きな被害を受け、殆どその機能を失っていた。震災直後から首都圏は情報過疎に陥り、不安にかられた被災者たちは情報飢餓の状態となり、少しでも耳寄りな情報を求めていた。そうした状況下に、被災者の不安をいやが上にもかきたてるような流言があっという間に広まり、悲惨な二次災害へと発展してしまったのである。

 

 

 

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