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一瞬のうちに崩壊し、瓦礫の下から救いを求める声が相次ぐ中で、殆どなすすべもなく延焼を続ける市街地。世界に冠たるという耐震性を誇ってきたはずなのに、パンケーキ状に潰れた鉄筋コンクリート造りのビル群。日本では起こり得ないと専門家が自負してきた高速道路や新幹線、地下鉄といった様々な近代施設の壊滅的な被害。液状化現象によって面泥の海と化した海上の埋立地。ズタズタに寸断されたライフライン。阪神地域を襲った大地震は、僅か一〇数秒間のうちに都市機能を完膚なきまでに叩きのめしてしまった。

一九九五年一月一七日午前五時四六分、淡路島北部を震源とするマグニチュード七・二の地震が発生した。神戸市から西宮市にかけての幅約二キロ、延長約三〇キロの地域と、宝塚市や淡路島北淡町などの一部が震度七の激震に見舞われた。死者、行方不明者は、これまでに六、四二五人と認定されている。また、負傷者は四万一、一五二人、全壊及び半壊、一部損壊の家屋は、三九万四、四四〇棟に上り、鉄道、道路、電気、水道、ガス、電話などライフラインにも多大な被害を及ぼした。四八年の「福井地震」の被害をはるかに上回る戦後最悪、また、今世紀の地震災害としては、二三年の「関東大震災」に次ぐものとなった。

 

「最悪のシナリオではなかった」

この大震災を考える上で、まず、私達が認識しておかなければならないのは、決してこれが最後の震災ではないということであり、今回最悪の事態が起きたわけでもないということである。どちらかと言えば「不幸中の幸い」とも言える災害であり、今回が最悪のシナリオと考えてしまうと、将来の災害に対して見誤る危険性が潜んでいる。今回の震災は、極めて特殊な条件の下で起った。発生時間はまだ朝のラッシュ時間には早く、オフィスは無人、山陽新幹線は運行前、高速道路の交通量も比較的少ない時間帯であった。地震発生後、被災地周辺はすぐに明るくなって、被災状況の把握や災害対応に有利な条件が整っていた。もっと多くの人達が活動している時間帯であったら、さらに多大、かつ複合的な災害が引き起こされていたに違いない。一月中旬ともなれば、阪神地域には「六甲おろし」と呼ばれる強い季節風が吹き荒れる。しかし、あの朝は風のない穏やかな気象条件下にあった。強風下であったならば、延焼火災も街路などで焼け止まることはおそらくなかったことだろう。まさに多くの饒倖に恵まれた震災であった。

 

「被災情報の遅れが全ての死命を制した」

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「NHKは大震災をどう伝えたか」

NHKにとって、午前五時四六分という地震の発生時刻は、総合テレビの放送を開始する上で好条件であった。NHKでは、たまたま試行的に九四年一〇月より首都圏と近畿圏向けに毎朝五時五〇分から気象情報を流していたため、担当者が既に放送開始の準備にかかっていたからである。このため放送の開始は早く、大阪では地震発生から二分一四秒後の午前五時四九分六秒から、東京でも午前五時五〇分から総合テレビの放送を開始している。午前五時五〇分には大阪発の管中(近畿圏向け)放送で、「神戸震度六」を伝えている。また、一刻を争う津波情報も五時五二分に「津波なし」を管中で伝えており、初動段階の放送としては、これ以上ないほどの早さであった。

 

 

 

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