森の返還と思い出
〜思いつくまま〜
関美智子
昔の森
“関さんの森”と呼ばれる森は、かつてはトウカン(稲荷)山の名称で親しまれ、狐が棲むほどの鬱蒼とした森でした。50年くらい前までは樹齢200年もの松や杉、檜(ひのき)が林立し、昼間でも薄暗く入るのが怖い程でした。一方、竹林となっている低湿地は管理の行き届いた明るい森で、ヤマユリ、キンラン、ギンラン、シュンランなどが咲き、四季折々に目を楽しませてくれました。住宅街となっている東側も同様の森が続き、温水池の前方約100メートル先の小高い台地までは、谷津田が広がり、またその先は森というように、あたり一面が緑一色でした。田んぼにはタニシ、ドジョウ、ウナギ、カエル、ヒルなどがおり、小川にはメダカはもちろん、ミズスマシ、ゲンゴロウ、鮒、川えびなどが泳ぎまわっていました。コサギやチュウサギが餌を求めて、常に10数羽が棲んでいたように覚えております。私の子どもの頃には森にはもう狐はいませんでしたが、リス、野ウサギ、イタチは度々見かけました。イタチはよく天丼裏をかけまわったものです。アオダイショウやヤマカガシも出没し、鶏卵や金魚がよく失敬されました。フクロウ、カケス、アカハラ、モズなどもごくふつうに見かけました。
子どもの森
1970年代後半から急激に都市化の波が押し寄せました。いたるところで宅地開発がおこなわれ、まわりの森の木々は伐採され、土砂はとられ、田んぼは埋めたてられ、あたりは住宅の密集地と化してしまいました。父は自然をこよなく愛した人でした。散歩の時はいつもカメラを片手に出かけ自然の四季のうつり変わりを大切に撮り続けました。一人でも多くの人に身近な自然の良さを理解してもらい、また、子どもたちには自然の中で思いきり遊んでもらいたかったのでしょう。20年ほど前にこの森を市に貸与し、住民の方々に開放しました。その時、“子どもの森”と命名されたのです。子どもたちの楽しそうな声がよくきかれるようになりました。多少起伏のある森を健康のために歩く人、犬と散歩する人なども少なくなく、また、森は訪れた人々の気のおけない会話の場にもなっていました。
1980年代に入り、酸性雨や松喰い虫、車の排気ガスなど諸々の悪条件が重なり、松、杉などの古木が次々と枯死し、代わってシロダモ、樫、ミズキ、イヌシデなどが目立つようになりました。子どもたちがすべりおりるなどしてよく遊ぶ箇所の表土は踏み固められ、植物が生えにくくなってしまいました。心無い人々がゴミを投棄したために湧水池は汚濁し、車や湧水池をすみかにしていた生き物たちも次々と姿を消していきました。
父の死
一昨年9月父が突然他界しました。これといった税対策も立てておらず、住居もわずかばかりの畑や森も市街化区域内にあることから、とてつもない額の税が課されることになりました。自然大好き人間である父の遺志を継いで、この小さな森を森のままで後世に残すためにはどうしたらよいのか、私たちは思案しました。その結果寄付することに決心しました。寄付を受理してくれる自然保護団体を探し出すのに大変苦労いたしましたが、幸いにも埼玉県生態系保護協会にめぐりあい、寄付をさせていただきました。
“関さんの森”と“森を育む会”の誕生
今年の4月、“子どもの森”が“関さんの森”と改称され、協会の方々、地元の有志の方々のご支援とご協力により、“森を育む会”が誕生しました。大勢の心から自然を愛する仲間たちが集まってくれました。
会はまだ生まれたばかりで、これから先ささまざまな活動を通して、自然とともに生きることを共に実感していきたいと思います。
そして、今森に生存している生き物たちが一種も欠けることなく、また森から姿を消してしまった木々や花、小島や昆虫、小動勧たちが一日も早く戻って来てくれるような環境づくりをしていきたいと思っています。自然保護から一歩進んで、自然との共生をみんなでつくりだし、よりいっそう住み良い空間をつくり出す自然環境づくりに取り組みたいと思います。