ジャナタ党政権はこの経済的混乱を収拾できずに内部分裂を経て崩壊し、1980年にはインディラ・ガンディが政権に返り咲くことになった。しかしその政治基盤も脆弱であり、ジャナタ党政権のとった補助金を軸とするポピュリスト的政策を踏襲せざるを得なかった。その結果、対GDP比でみた中央政府の財政赤字は増加の一途をたどり、1980年代後半には8%前後に達した。また中央政府の国内債務残高は、GDP比でみて1980/81年度で35.6%であったものが1980年代後半には50%を上回り、インドはそれまでの均衡財政から大きく外れていった。
対外収支についても同様であり、インディラ・ガンディが再度政権の座に就いたときには貿易収支の赤字幅が大幅に膨らんでおり、貿易赤字/GNP比率は過去最悪の水準に達していた(第1-1図参照)。彼女は、IMFの拡大融資枠(Extended Facility Fund)からの50億SDRという、それまでにIMFが加盟国に行った最大規模の融資によって経済危機を乗り切ろうとした。この拡大融資枠の融資はコンディショナリテイを要求するものであり、産業および貿易政策で諸々の自由化措置がとられた。しかしこの自由化に対しては、それがインドの経済哲学である自助に抵触し、また60年代後半の苦い経験もあることから、国内で強い抵抗がみられた。そうした背景もあって、統制経済の基本的枠組みはそのまま残された。すなわち、統制経済体制を維持したままでの経済自由化とこの時期を位置づけることができる。
経済自由化の過程で製造部門は80年代を通じて7%程度の比較的高い成長率を達成したが、輸入代替工業化の宿命として貿易収支の赤字基調が続いていた。この間の対GNPでみた貿易赤字は、60年代半ばの経済危機と同じく高い水準にあった(第1-1図参照)。1980年代前半の経常収支赤字は外国援助を中心にファイナンスされてきたが、1980年代後半になると在外インド人の預金と外国商業銀行からの借入がその比率を高めていった。外国援助と対外商業借入により債務返済比率(Debt Service Ratio)も急激に高まり、1980年代半ばには危険水準の25%を越えていった。また在外インド人の預金はホットマネーの性格を強く持っており、1991年の経済危機の際には資金の引き上げが起こって事態をさらに深刻化させている。こうして経常収支の赤字傾向が強まるなか、1997年のタイの通貨危機の前夜に似たマクロ的環境が生まれていった。政治面でも、1987年には国民会議派は総選挙で敗退して、以降、不安定な連立政権が続いた。