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しかし、こうした補助金政策は財政危機を招来することになる。この事態を踏まえて、ラージ委員会(The Committee on Taxation of Agricultural Wealth and Income)は、1969/70年度において、パンジャーブ州の農業関連税が当州の農業所得のわずか0.24%でしかないことを明らかにして、課税による富農からの所得移転を勧告した。しかし農業所得への課税権限をもつ州政府は富農の抵抗をおそれ、その勧告に従うことはなかった。そこで中央政府は、農業関連補助金の削減や農産物価格制度の見直しを余儀なくされることになる。その結果、近代的農業投入財の価格は上昇し、また穀物の実質庭先価格は逓減していった。従って、交易条件は、穀物輸入の必要がほぼなくなった70年代後半になると急速に農業に不利に展開することになる。それはまた、工業化には有利な環境が整えられたことを意味しており、その後の経済の自由化の再開につながることになる。しかしこの動きは、当然、富農層の農業収益を圧迫して彼らの反発を招き、新興富農層と会議派の蜜月関係は早くも終焉に向かうことになった。80年代のパンジャーブ動乱とインディラ・ガンディ首相の暗殺もその延長線にある。

 

3-2 農民の圧力団体化5

1970年代に農工間交易条件が農業に不利となるに従い、新農民運動(New Farmers' Movements)が活発化した。その中核となったのは伝統的農民(Peasants)ではなく、農産物の市場化余剰をもち近代的農業投入財の購買者として市場経済に巻き込まれた近代的な商業農民(Farmers)であった。新農民運動の共通する特徴は、新民運動のイデオロギー的支柱となったシャラド・ジョシー(Sharad Joshi)のスローガン、"India(都市としてのインド) vs. Bharat (農村としてのインド)"に象徴されるように反国家(anti-State)であり反都市(anti-urban)であった。「緑の革命」以前の(旧)農民運動のスローガンは、「土地を耕作者に(Land to the Tiller)」であり、政策課題は土地改革や地主・小作問題であった。しかし70年代の「新農民運動」のスローガンは、農産物・近代的投入財の価格そして補助金という市場ネクサスに係わるものであり、それについてのロビー活動が盛んとなる。

1977年の総選挙で独立以降の連邦政府を一党優位のもとに掌握してきた国民会議派が敗退してジャナタ(人民)党が政権の座に就いたが、ジャナタ党は新農民運動に代表される富農層を取り込んでいた。この時期こそ、インドの農業政策の分岐点となる。

 

 

 

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