インド政府が開発資金を傾斜配分した重工業部門(素材金属・金属製品・非電気機械)で成長率の低下が著しく、食料品・綿製品では成長率の鈍化は相対的に小さい。これは、成長率の減退が賃金制約という内的罠によりもたらされたのではないことを示唆している。というのも、もし賃金制約が工業部門の停滞の原因だとするならば、成長率の鈍化は労働集約的産業である食料品・綿製品部門で顕著になったはずである。農業の低迷が最終消費財の需要を制約した、さらには原料としての農産物供給の制約が工業部門の停滞をもたらしたという主張もなされているが、それらも同様の理由により反論されよう。
この時期の経済成長の低迷の主たる理由は、外貨制約による開発資金の溢路にもとめることができよう。この溢路は、ふたつの側面で表面化している。ひとつは外貨制約によって、資本財輸入や技術・資本提携件数が60年代半ばを境に減少していること(第1-5図)である。もうひとつは、次節で触れるように、農業危機により工業優先から農業重視へ政策転換が求められたことである。第2次5カ年計画の開始とともに急増した工業部門の実質資本形成額(第1-6図)は、60年代半ばから70年代後半までの「失われた10年」の期間は低迷をみせている一方、農業部門の資本形成は増加している。すなわち開発資金の規模そのものが制約を受けるなかで、さらに資金配分が農業に傾斜していき、工業部門への資金溢路が顕在化していったといえよう。
では何故、経済の低迷が10年も続いたのであろうか。その理由も、農業に求めることができる。穀物増産を目指した「緑の革命」によりインドが外的罠から抜け出すには、農業危機から10年の歳月を要した。というのも緑の革命の普及に時間を要したばかりでなく、化学肥料の多投が必要条件となる緑の革命のもとで、インドは化学肥料を輸入しなくてはならなかったからである。総輸入額に占める穀物と化学肥料の輸入額(以下、農業関連財輸入額)は、農業危機以前では20%を下回っていたが、1964/65年度には23.3%となり、それ以降の3年は25.4%、36.5%、33.2%と高い比率が続いた。農業危機から1975/76年度までの平均比率は24%であり、これは輸入代替工業化にとっての外貨制約を深刻なものとした。それがひと桁に落ち着くのは1977/78年度以降であり、その後は機械類輸入額指数と技術・資本提携数は回復に向かっている。対外関係から観察される失われた10年である。
これまで検討してきたことから、インドでは「人口と食料」のバランスの如何が、工業化戦略を大きく規定してきたことが指摘できよう。