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1958年の急進的な大躍進運動が失敗に終わり、それに続く数年間の経済的困難は中国社会に大きな衝撃を与えた。経済的困難と社会的不安定という人為的要因から一時的に人口増加率の急激な低下が現れたが、1962年以降に経済が回復するにともない、その反動として人口増加率が大幅に上昇してきた。その結果、人口圧力が再び関心を呼び、人口抑制への必要性に迫られたのである。翌年には幾つの省と市に計画生育委員会という政府の行政機関が設置され、1964年には国家予算項目の中に「計画生育支出」が設定され、同じ年に国務院計画生育委員会が設立されるようになった。
このように次第に軌道に乗り出した人口政策は、1966年の文化大革命の勃発により中断されてしまった。文化大革命時期に人口問題はタブーとなり、人口抑制のための人口政策を云々することは不可能なことであった。人口政策のための計画生育が明確に打ち出され、持続的に実施されるようになったのは1970年代初めからである。1973年に人口が国民経済発展計画の中に組み込まれ始めた。同じ年に国務院計画生育指導小組が設立され、「計画的に人口を増加させる政策」としての中国の人口政策が明確な形で成り立つようになった。

この時期の人口政策は、主として「晩・稀・少」という三本柱から成っていた。「晩」とは、晩婚を意味し、男女の初婚年齢を伸ばすようにした。「稀」とは、二人の子供の間の出産間隔を四年前後にすることであり、「少」とは、一夫婦が二人以上の子供を生まないようにすることである。一方、1970年から避妊薬品と器具の無料供給制度が実施され、1973年には全国で三分の一の農村において男女不妊手術、IUD装着と人工中絶に必要な設備と器具が装備されるようになった。この時期は、文化大革命がまだ終わっていなかったが、種々の行政手段を通じて人口抑制が行なわれていたのである。

十年間も続いた文化大革命は1976年に終わり、1978年の新憲法に「国家は計画生育を提唱し、推し進める」と明示され、同じ年に「一夫婦に子供一人が一番望ましく、多くて二人まで」という方針が明確に提出された。1981年に中国の人口政策は「人口の数量を抑制し、人口の素質を向上させる」という内容を鮮明にし、その翌年に計画生育は中国の基本国策の一つであることが宣言され、今世紀末までに中国の人口を12億以内に抑制するという人口抑制目標が正式に打ち出された。

 

 

 

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