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いた」とも聞いたが、その後調べたところ、何と教育委員会の記録にはまったく残っていなかった。

そうして教師の道を断念し、大学卒業後は家で箏曲教室を開くようになった。それまでの師匠から離れて独立をし、コンサート活動も行うようになり、自主企画でアメリカに演奏旅行にも出向いていく。「当時海外にいらした方がみんな成功して帰ってこられるんで、私はそんな力もなかったんだけど、お琴という日本の楽器が西洋の音楽と同じように認められているのかな、と思って試してみたかったんです」

行動力のある人である。自分の夢を持ち、その夢を果たすことに対してはあくまでどん欲だ。

 

結婚、乳がん発病。トークで自分の障害の話をする

ご主人の宏さんと知り合ったのは、ちょうどこのころ。

当時寿美子さんは、京都府盲人協会の職業部の担当理事として障害者の職域を広げる運動をしており、その一環として、京都市下京勤労青少年センターにお琴の教室を開かせてもらえるよう申し入れをした。その時、センターの所長として対応したのが現在のご主人、梶宏さんである。

しかし出会った当時、宏さんは妻子ある身だった。結局、出会ってから一〇年後の平成三年二月、宏さんと前の奥さんの離婚が正式に成立したことで二人は晴れて入籍。寿美子さん四三歳、宏さん五六歳の時であった。

それから約二ヵ月後のある日、寿美子さんは自身の体の異変に気付くことになる。

「四月に演奏会をやって、胸のしこりを感じて。年もいってたけど、子供一人くらい欲しいねって初めて主人が言ってくれたころなんです。でも九月に告知されてから一〇月に手術。抗がん剤を飲みましたから、結局子供はあきらめたんです」。乳がんの発病だった。演奏会もあきらめていたが、それから約一年後、一回くらい夢を見てもいいのではと、最後のつもりで東京の浜離宮ホールでコンサートを企画した。しかし、「これが最後」と企画したコンサートも、実は、ここからまた梶さんの新しい一歩がスタートするのだから、人生とは不思議である。このコンサートで服飾評論家のピーコさんとの忘れ得ぬ出会いが、現在に至る活動のきっかけとなった。

コンサート当日の平成五年六月、東京の浜離宮ホ

 

 

 

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