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「生まれた家は、トイレもお風呂も共同の狭い長屋でね、近所の人の中に自然に入って助け合って生活しているような感じてした。いじめにあうこともなくて、目が見えないのは自分だけじゃなくてみんな同じなんだという気がしていました」

そんな彼女が目が見えないことを強く意識させられたのは小学校二年生の時。現在の住まい、東福寺に転居してきたころ。年子の弟が、歩いて二〜三分のところにある小学校へ通うようになった。梶さんは一時間程かかる盲学校に通っており、「どうして私はすぐ近くの学校に行けないの?なんで私だけがあんな遠いところに行かなくてはいけないんだろう」-子供ながらに素朴な疑問を持った。社会の複雑な壁を知らされた出来事だった。

お琴を始めたのは、六歳の時。六歳の六月六日に稽古事を始めると身につくという芸事の習いに従った。

 

 

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ラジオ番組出演が縁となり、今いくよ・くるよさんと舞台で共演。(平成9年2月京都市北文化会館にて)

 

 

高校進学時には職業教育としてのお琴のコースを選択し、五年間学んでいる。「卒業後はお琴の先生ぐらいできるかな」という思いだったが、盲学校以外の生活も見てみたいと思い、大阪音楽大学箏曲科に進学した。大学側にしてみれば初めての盲人の学生だったという。

「友達が支えてくれなかったら多分卒業できんかった」と言う梶さん。

"通学にあたって介添えは一切認めない"というのが受験の条件であり、自分から話しかけていかなければ何も前へ進まないということを肌で覚えさせられた大学生活だった。

そして、障害があるだけで差別されるということをまざまざと知らされたのも大学時代。教師を志し、教員採用試験の受験を目指したが、当時、点字受験はまだ認められていなかった。

「受からないことが条件で点字で試験を受けたんです。屈辱でした。黒板に字の書けない先生に子供を預ける親はいないって言われたんだけど、でもそういうことって盲学校にいたら、多分ね、言われなくて卒業してお琴の先生になっていたと思うんですよ。それから思うと、今は言われたほうが良かったかなとも思いますね」

採点事務を手伝った先生からは「合格点に達して

 

 

 

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