孤独死は果たして悲惨な死か?「生と死」にどう向かい合うか。
京都には「自分の死を考える会」がある。震災とかかわりのなかったところでの死への取り組みを知りたいと、フリートーキングの日に参加した。
夫や妻の死を経験した人たちや、末期がんの患者も参加。当然だろうが、出席者は高齢者がほとんど。筆者は孤独死について意見を聴きたいと発言したが、会場の反応は得られなかった。たった一人、間もなく定年を迎えるという看護婦が、孤独死は自分としては理想的な死だと考えると述べた。もしも死の床のそばに人がいれば、人工呼吸とか、心臓マッサージとかの治療を施され、安らかに死ねないだろうから。この考え方にもちろん異論を持つ人もいるだろう。しかし彼女には、少なくとも個人として、自分の死をどう迎えるか、演出するかの余裕が感じられた。死で終わる人生の終点を冷静に見つめながら、その一方で、自分なりに与えられた人生の時間を、いかに精一杯生きるか。
確かに現代社会のある一面は「悲惨な孤独死」の状況をつくっている。行政も地域市民もその解決方法をしっかりと考えていく必要に迫られてもいる。しかし人生は予定通りにはいかないものだ。平均寿命を超えた最後の最後まで、死は一人ひとりに思いがけない現れ方をしてくるものである。社会との接触を拒み続けた上での孤独死の死者の多くは、消極的な自殺行為による死だったという主張もある。虚しい死は社会の責任なのか、それとも個人の責任なのか、死についての議論は日本ではまだまだこれからである。