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こともなげにこう話す齋藤さんだが、普通、牧場はブルドーザーなどを入れてまず草地造成をしてから牛を放牧する。それを、「設備も機械も入れずに牛にすべてをまかせる」というのは、一般の酪農常識では考えられない発想だった。果たして、齋藤さんは、どうしてこんな方法を思いついたのだろうか。

 

追い詰められて気づいたのは自然の一部に溶け込むことの大切さ

山形県の農家の四男坊として生まれた齋藤さんは、昭和二二年、一九歳にして開拓団の一員として山形から北海道のこの地に入植した。「兄たちが戦地から復員してきたり東京から引き揚げて帰ってきたりしてましたから、身の置き所がなかった」のだという。

当初、開墾は共同経営で進められたが、条件のよいところから水田づくりがはじまり、それぞれの生産に違いが出てくると、共同の気持ちもきしみはじめた。そして、四年めには解散。土地を分配することになったが、開拓団の中で一番若く、しかも独身の齋藤さんに割り当てられたのは、暮らすにも農業にも、とにかくいちばん立地条件の悪い、なんと山奥の石山だった。

「くわを振るえば、岩に当たって火花が散るような荒れ地でねェ。せっかく、豆やイモを植えても、み〜んな野ウサギや野ネズミに食われて収穫はゼロ。六年間汗水たらして働いてきたけど、なんの成果も得られないどころか、働けば働くほど苦しくなっていくばかりでした」

開拓農業と生活に追い詰められた齋藤さんは、ある日、山のてっぺんの木に登って考えた。いったいどうしたらここで生きていけるのか…。

「鳥や虫や自然は泰然自若、悠々と生きて、営みを続けている。なのに、自分はこんなに肉体を酷使して、そのうえ金まで使っているのにこのありさま。いったい、この違いはどういうことなんだろうと考えていたら、ハッと気づいたんです。自然に立ち向かうのではなく、鳥や虫と同じように、自分も自然の一部として溶け込む姿勢が必要なんだと」

追い詰められた極限状態が、発想の転換をもたらしてくれた。"米をつくり、畑を耕すだけが農業じゃない。山を生かし、雑草も生かすなら、くわを捨てて牛を飼おう"。こう考えた齋藤さんは、先に紹介したような自然放牧に近い独自の方法で酪農を営みはじめたのだった。

経済成長、合理化路線に乗る当時の風潮とは裏腹に、機械化や近代化とはまったく無縁な"齋藤方式"。周囲からは「牛は穀物で育てるものだ。ふざけたこ

 

 

 

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