もう一つは、青少年の社会性が欠けているということ。社会性に欠けているのは、他者とのかかわりが貧困になっている。別の言葉で言えば体験が欠けている。だとすれば、青年の家などは青少年に自然体験とか集団体験だけでなくて、いろんな体験を準備できないだろうか。その体験は、先ほど申し上げたように、食欲をわかすような理想自我と現実自我の適度なギャップという形で準備できないだろうか。これは事業を考えていく上でのベースになってくる。こう考えると、司会の吉澤さんが指摘のように、施設のスタッフだけでは限界ですね。スタッフだけでなくて、社会全体のいろんな知恵だとか、教育作用だとか、その種のものを融合させていかなければ無理でしょう。どうしても施設なり、学校は特化していく過程で保守的、閉鎖的になっていきますからね。思い切って開かれた青年の家、開かれた少年自然の家という視座で、社会にある教育資源を融合させていくことを考えれば、よりいいプログラムができるでしょう。その立場で、今の提案に賛成です。開かれた学校ばかりじゃなくて、開かれた青年の家です。
司会 そうですね。そうすると、今後専門の職員には、例えば個々の子どもたちに、青少年に指導できるという能力に加えて、やはりいろんなネットワークを組んだりとか、企画したりする意識、能力、技量が求められてくることになると思いますが。
伊藤 これからの施設職員は、施設だけでなくて、社会全体の教育的な資源をマネジメントできる能力が必要だと思います。
と同時に、それらのものを理解していなかったら、マネジメントはできません。机上プランで終わってしまいます。だから、山本五十六が言っているように、「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かぬ」です。これでなければ、施設の職員としての成果をあげられません。
本で覚えたことで間接指導といっても、相手には訴えない。何か一つ、自分のよりどころを持たなければ、と思います。それは観念的でない使命感であり、一芸なり、特技なり、自信です。それを持たなかったら、魅力のない職員になる。
司会 指導を行う専門の職員の数は、各青年の家などは、県立でも市町村もそうですが、1人ということは多分ないと思うので、複数の方がおられるわけですから、やっぱりバラエティーに富んだというか、余り同質の人じゃなくて、それぞれ専門はお持ちだけれども、指導集団全体として力を発揮するというような感じのことも将来は必要なんですかね。
というのは、国立の施設を例にとると、ほとんどが学校の先生がなっているので、そのあたりが今後、新しい青年の家でダイナミックに開かれたそういう施設、開かれたプログラムを組んでいくということになると、やっぱりいろんな―なかなか難しいんだと思いますけれども、先生のほかに社教主事の方もいるし、民間というのはちょっとわからないですが、何人かいるうちの1人か2人はそういうふうになることによって、よりいいものができるんじゃないか、一般的な組織論としてはそう思うんですけれども、そういうことにも今後波及していくのかなという感じはするんです。