ちょっと話が前後しますけれども、総理府の調査なんかを見ていると、現代の若者にアンケートをすると、特にこれといった不満がないというのが結構多いんですね。私は、これは一見いいようだけれども、非常にゆゆしき問題でもあるんじゃないかと思うのです。不満というか、ある程度飢餓感みたいなものがあって、それが若者の前進のエネルギーになるんだと思うんです。だから、子どもというか、若者のときに、世の中はちょっとおかしいんじゃないかとか、こうしたいんだとか、それを乗り越えたい、変えたい、おやじを乗り越えたい、社会を変えたいというのが前進のエネルギーになるのに、社会に対しても特に不満がないというのは、何か非常に問題のある現代の若者の一般的な傾向といいますか、意識をあらわしているんだなと思っておるんです。
伊藤 それは、青少年施設の経営を考えていく上で重要な指摘です。というのは、青少年活動なり、青少年団体活動でもそうですが、これらが成立するのは、理想自我と現実自我の適度なギャップがあるからです。そのギャップを乗り越えようというエネルギーで青少年活動なり、青少年団体活動、あるいは青少年教育が成立するわけです。
ところが、今の子どもたちには、このギャップがない。昔は親の目を盗んで野球したのですが、今は親が先頭に立ってリトルリーグに子どもを連れていく。これでは子どもだってやる気が生まれません。
青年たちはといえば、このギャップが大き過ぎるんで白けちゃう。だから、教育的には理想自我と現実自我の適度なギャップの設定が考えられるわけです。これは、青少年教育施設のプログラムが得意としているところです。欲求不満の時代だったら、欲求不満を持たせないようにした。でも今日のように満足している豊かな社会だとすれば、適度な欲求不満をいかにつくり出していくか、適度なギャップをどう準備するか、です。この視点は青少年施設でも大切だと思います。
手っ取り早いギャップ解消策の一つは、文句を言うことです。文句は施設の職員としても嫌ですから、向こうに合わせてしまう。迎合的になり、ギャップがなくなると魅力がなくなって、また青少年は来なくなる。白けないで、青少年が飛びつけるような理想自我と現実自我の適度なギャップを演出するのが、青少年指導者の腕になってきます。
五十川 豊かさの中での子どもたちの教育活動をどうするか。「生きる力」という言葉が、1つの教育のキーワードの形になって流れていますけれども、我々が具体的に生きる力を個々の事業の中でどう具現化するかといったときに、漠然と考えても抽象的になってしまう。きれいごとを言えば、中教審に書いてあるような文章になってしまう。
私は、「生きる力」を動物的に、人間という群れの中に同化していくために必要な力というふうに考えると、いろんな切り口があるんだろうと思います。例えば1つには、えさをとる力もなければ生きていけないだろう。それから、身を守るという力も持っていなければ生きていけないだろう。例えば、けんかをして勝つ身を守る力もあるし、こいつにかかったら負けるから逃げ出そうというのも、1つの「生きる力」。それから、世の中、雄と雌しかいないんですから、雄と雌とが仲よくしていくという力も「生きる力」の1つなんですね。